1960年代に入り、巨人の主催試合は日本テレビが中継し、他セ・リーグの主催試合の「巨人戦」は、他の民放各局が中継するという体制が整っていく。
長嶋茂雄の1年遅れで巨人に入団した王貞治が、1962年に「一本足打法」を完成させ、ここから13年連続で本塁打王。長嶋茂雄と王貞治の「ON砲」を中心とした巨人は、抜群の破壊力を持ち、1965年から1973年まで空前の「V9(セ・リーグ、日本シリーズ9連覇)」を果たした。

この間に「巨人一極集中」はさらに進み、民放全国ネットでの他球団のプロ野球中継は、ほぼ絶滅した。
セ・リーグ球団は「巨人戦」主催試合の放映権収入を収益の柱にするようになった。一方で、巨人戦がないパ・リーグ球団は、親会社の補填に頼るようになり、1970年代以降、身売りが相次いだ。
これにより巨人は「球界の盟主」として、発言力を強めるようになる。
1965年、MLBに倣って日本もドラフト制度が導入される。新人選手獲得の費用の高騰に根を上げたパ・リーグ西鉄の西亦次郎オーナーらが提案、他球団もそれに同意したが、MLBのように前年の下位チームから指名権がある「完全ウェーバー制」の導入に、巨人は強硬に反対し、くじ引き制度となった。
江川卓の「空白の1日」が象徴したこと
また、1978年には法政大卒の有望投手の江川卓をめぐり、巨人は「空白の1日」を主張し、ドラフト指名を経ずに江川を獲得しようとした。結局、この事件では最終的にコミッショナーも巨人側の主張を容認し、巨人のエース小林繁を、ドラフトで江川の指名権を獲得した阪神に移籍させる見返りに巨人は江川を獲得した。この事件は、巨人の権勢がプロ野球全体に及んでいたことを象徴している。
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