89歳で死去…長嶋茂雄が「日本の大衆文化」の歴史を変えた決定的な瞬間

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すでに民放テレビは1953年の日本テレビ開局を皮切りに、1955年TBSテレビ、1956年CBCテレビ(中京地区)、朝日放送(関西地区)と徐々に増えていたが、この1958年、12局が一挙に開局。さらにご成婚直前の1959年4月までに14局が駆け込み的に開局した。これらのテレビ局が、翌年の「ご成婚パレード」の中継に一斉に加わった。

日本国民は「世紀のご成婚」を見ようとテレビ受像機を先を争って買い求めた。

1957年のテレビ受像機の普及率は7%程度だったが、1958年には10%を超え、1959年には20%を超えるに至った。この時期は高度経済成長期の入り口にあたり、人々の所得は増加し続けていた。それもあってテレビ受像機は急速に普及したのだ。

「ご成婚」の熱気冷めやらぬこの年6月25日、後楽園球場の「巨人対阪神」の試合に、昭和天皇、皇后両陛下が来場。プロ野球史上初の「天覧試合」だった。日本テレビとNHKが全国中継する中、長嶋茂雄は9回に阪神、村山実からサヨナラホームランを打つ。

皇室の慶祝と時期を同じくした長嶋茂雄の快挙の瞬間、プロ野球は「ナショナルパスタイム(国民的娯楽)」になったと言ってよい。長嶋茂雄は、今風の言い方で言えば「持ってる」ということになるだろう。

4月10日の「ご成婚パレード」が終わって、各家庭の茶の間に収まったテレビ受像機で、人々は「長嶋茂雄が活躍する」巨人戦のナイターを見るようになったのだ。

巨人一極集中の「ビジネスモデル」を成立させた

長嶋茂雄が巨人に入団したころは、民放は日本テレビが「巨人戦」、他局は「パ・リーグ(南海、西鉄)など」のナイター中継を放映していた。まだテレビ受像機は少なかったが、巨人だけでなく他のプロ野球中継もテレビのコンテンツではあったのだ。

しかし1959年6月の長嶋の「天覧ホームラン」を境に、プロ野球人気は巨人「一極集中」へと変貌していく。

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