また、一部に「プロ野球は日本野球の本筋からは外れる」という意識も残っていた。戦時中の1939年、東京六大学の花形三塁手だった法政大学の鶴岡一人が職業野球(プロ野球)の南海に入団した際には法政大OBを中心に「大学卒業生が、遊びを仕事にするとは何事だ」と言う声が起こり、鶴岡は一時期、法政大同窓会を破門された。
当時、大学からプロ野球に行く選手の多くは「中退」だったのだ。大学生はエリートであり、野球は大学時代まで。卒業すれば企業や役所などに勤め、社会に奉仕すべきという考えが主流だったのだ。
戦後になって、プロ野球に進む大卒選手も何人かは出ていたが、その一方で、東京六大学のトップ選手でもプロに行かず、社会人野球に進む選手も多かった。
そんな中で、東京六大学最大のスター選手だった長嶋茂雄は、南海との争奪戦の揚げ句に巨人に入団、1年目から本塁打王、打点王という華々しい活躍をした。
これによって、以後、大学からプロ野球に進む選手が増加し、それとともに「プロ野球に対する偏見」は消えていった。
長嶋茂雄の入団以降、世間の注目度でプロ野球は大学野球などアマチュア野球を凌駕するようになった。そして新聞などメディアの扱いも「プロ野球が一番」となり、アマチュア野球の存在感は、相対的に小さくなった。長嶋茂雄は「プロ野球」のステイタスを高めた、と言ってよいだろう。
プロ野球を「日本のナショナルパスタイム(国民的娯楽)」にした
長嶋茂雄が巨人に入団した1958年から翌59年にかけては、戦後日本のメディア、社会が大きく変貌した時期だった。
この年、皇太子明仁親王(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)のロマンスを各メディアが一斉に報じた。明るい話題に日本中が湧きかえる中、11月27日、宮内庁はお二人の婚約を発表、そして翌年4月10日に「ご成婚」「ご成婚パレード」を行うと発表した。
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