そうして、米価高騰に伴う苛立ちや不満が爆発寸前にまで膨れ上がった「下からのポピュリズム」は、この閉塞感を打開することを約束して注目を集めるポピュリスト政治家の「上からのポピュリズム」とその近視眼的な欲望において一致するのだ。つまり、「備蓄米5kg2000円」の早期実現である。
行き着く先は、平成の小泉劇場の二の舞に?
哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、「熱意を焚きつけたり、扇動的スローガンに頼ったりせずに、理性的な専門政治と実利的なアプローチを通して国民の生活を守ると約束する、明らかなポピュリズム・アピールを伴う政治運動(左派でも右派でもなく、人々の「真の利益」のために働く)」を「テクノ・ポピュリズム」と呼んだが、これが日本のポピュリズムシーンにおいても定着しつつある(『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』富永晶子訳、NHK出版)。
ここにおける「真の利益」を意味するものは、「本質的な課題解決とはならないが、当面の生活上の便益となりうる政策」を指すと言い添えることができるだろう。
例えば、国民民主党の「手取りを増やす」政策は、賃上げが本丸だがこれをいきなりやり遂げることは不可能である。そのため、基礎控除などを103万円から178万円に拡大するなど、減税や社会保険料の軽減などを「真の利益」として前面に押し出す手法を採用した。
米価高騰に対する「備蓄米5kg2000円」政策に置き換えれば、長期的な安定供給体制の確立が根本の課題としてあるが、それは既存のシステムを激変させる大掛かりな取り組みになるので、賞味期限切れのセール品のような古古古米を高騰前の価格帯で提供することを「真の利益」としてプレゼンスを高める妙案となる。
このような構図において、ポピュリスト政治家のヒーロー化(小泉米!)と米価高騰に固執する勢力のヒール化(JA解体論!)は、物語としてあまりに強力でかつ魅力的である。けれども、今後繰り広げられるかもしれない小泉大臣のさまざまな大ナタが、わたしたちの生活を良くしてくれる保証はどこにもない。
一時の熱狂と目先の利益にとらわれて、かつての小泉政権による郵政民営化のような展開が待ち構えている可能性は否定できない。「令和の米騒動」の行き着く先が、「下からのポピュリズム」という上昇気流にあおられて、平成の小泉劇場の二の舞を演じることになるのか。令和の小泉劇場の正体を冷静に見極める必要があるだろう。

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