「カウンターに立ち続けて39年」「休みは盆と正月だけ」蝶ネクタイのマスターが営む“ふつうの喫茶店”が、地域で愛され続ける理由


「商売を学ぶなら大阪だ」と大阪の会社に絞って就職先を探していると、親戚から岐阜県出身者ばかり雇っている繊維卸会社を紹介された。
高校卒業後、18歳で大阪に一人で出てきて寮生活が始まった。同期の13人も同じく寮暮らしで、毎日が修学旅行のように楽しかった。
入社して最初に与えられた仕事は、取り扱い商品を覚えることと出荷作業だ。
同期に負けたくないから、いかに早く出荷できるかを研究した。
ピッキングする商品番号ごとの出荷場所を覚えて、勘をつかんでいった。

新入社員は定時で帰らされることが不満だった。先輩たちがまだ仕事をしているのに自分だけ帰るのは嫌だったので、自主的に商品の検品や荷受けを手伝っていた。
商売を覚えたくて大阪に出てきた河合さんは、働く時間を苦にしない。
「一日36時間ほしかったですね。寝る時間があれば、その分働いて仕事を覚えたかった」と当時を振り返る。
就職から4年後、母が急逝した。
岐阜に戻り、空き家になった実家を活用して商売を始めようかと考えたが、中途半端に会社を辞めるのは嫌だったのでこの会社で10年は頑張ろうと決意を固める。
「あなたの人生なのだから、自分のやりたいことをしなさい」と、大阪での就職を許してくれた母の顔が浮かんだ。
会社員から飲食の道へ

河合さんは大阪でコーヒーの味を覚えた。
「繊維卸会社の営業で外回りをしていたので、仕事の合間にいろんな喫茶店に行けたんです。
ある日、堺市のコーヒー専門店で飲んだキリマンジャロの味に衝撃を受けました。
店の名前は忘れてしまったけど、薄暗い店内とおつまみで出された落花生の殻を床に落としながら食べる雰囲気は今でも心に残っています。
その店がサイフォンで淹れていたから、友人に紹介された喫茶果琳がサイフォンだったことに運命を感じました」
河合さんは会社員をしながら、週末のみ三国の喫茶果琳で手伝いを始めた。
「外から見るのと実際に働いてみるのは違うだろう」と会社員をやりつつ修業した経験が自信になった。
飲食業をやっていける手応えもあり、会社に退職を申し出た。
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