「教科書は読めて当たり前」が子どもをダメにする 学校では教えない、学力を決める「シン読解力」

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ところが、大学に入学してみると、1、2年生は数学が必修科目だということがわかり、泣きたくなりました。しぶしぶ出席した授業を教えていたのは、(そのときには気づきませんでしたが)なんと、私が焼き払った高校数学の教科書の執筆者のひとりだった松坂和夫先生でした。

松坂和夫先生の講義は、中高までの「例題と発展問題の解法を教える授業」とは異なり、数学の教科書を正しく読み解くことに主眼を置いたものでした。松坂先生に、一から数学の教科書の読み方を指導してもらううちに、徐々に私は数学の教科書が読めるようになっていきました。どうやら、私は自己流で身につけた「物語の読み方」で、あらゆる教科書を読もうとして、数学や物理・化学など、いくつかの教科書の読み方に失敗していたらしいのです。

それでも、数学を書くほうはまだまだでした。章末の証明問題を解いて提出すると、真っ赤になるほど修正されました。文の順序、助詞の使い方まで直されるのです。まるで、茶道や日本舞踊の稽古のようで、最初は窮屈に感じましたが、正しい読み方と書き方の型を身につけると、力を入れずに自然に証明が書けるようになっていました。そして、気づいたときには私は数学者の卵になっていたのです。

読解力はトレーニングで養える

この経験から、私は3つのことを学びました。

1つ目は、各教科の教科書を読み解けるような読解力を身につけるには、読書では不十分なこと。場合によっては、読書で身につけた自己流の読みが、一部の教科の読解を阻害することさえあるのです。

2つ目は、教科書の書かれ方には、ある種の「型」があり、その「型」を意識させるほうが自由に読ませるより教育効果が高いこと。型を身につけるには、トレーニング以外にないことです。

そして、3つ目は、18歳以上で、しかもその教科が大嫌いでも、トレーニングの内容が適切で、学習者にトレーニングを継続する能力と意欲さえあれば、人生で困らない程度にはその教科の読み書きを身につけることができる、ということです。「フェルマーの最終定理」を解けるような数学者になるには才能も不可欠でしょうが、私程度の数学者になるとか、工学者や経済学者になるために必要な数学であれば、才能うんぬんではなく、18歳以上からでもトレーニングで身につく可能性は十分にあります。

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