「しれっと訂正した文春」フジとの"ズルい共通点" 批判の矛先が次は週刊文春に向かっているが…

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「延長」「関与」という釈明に対する是非はさておき、週刊文春が「記事を上書きするだけで自社発信での訂正や謝罪は必要ない」と判断していたことは確かでしょう。

橋下さんの指摘を受けて記事化し、思っていた以上の批判を受けてさらなる釈明を余儀なくされたという現状を見れば、その感覚や対応は世間と乖離している様子がうかがえます。

感覚や対応が世間と乖離していたのはフジテレビも同様。初動のコメントも1度目の会見も「できるだけ事を大きくしたくない」という消極的な対応にとどめたことが不信感を募らせました。

さらに再会見も長時間耐え忍ぶ姿こそ見せたものの、問題視されている社の体質を変えるなどの姿勢を見せようとせず、「ここは変えずに乗り切りたい」という、やはり消極的なニュアンスを感じさせたのです。

フジテレビ
長時間におよぶ会見で疲れを見せる港浩一社長(左、当時)と嘉納修治会長(当時)(撮影:今井康一)

「これくらいでいける」の古い感覚

古くから出版業界とテレビ業界には、「今まで通りこれくらいでいけるだろう」という危機感に欠ける対応や、「間違えてもできるだけ謝らずにやり過ごしたい」という身勝手な感覚がありました。

筆者自身、両業界に関わって27年目になりますが、若手のころに教えられたのは「もし間違えても何事もなくやり過ごせ。クレームが来ても『すいません』だけで通せ」という対処法。どうしても訂正が必要なケースでも、「巻末の奥付にこそっと載せる」「番組の合い間や最後にひと言だけ謝る」ことを指示されました。

もちろん世間の目が厳しくなって、ごまかしたり、押し切ったりすることは難しくなったものの、業界内にそんな感覚や対応がまだ残っているのも事実でしょう。

実際、週刊文春の対応からは「これくらいなら訂正記事の必要性はない。ましてや謝罪は不要だろう」というニュアンスを感じました。同様にフジテレビも「これくらいのコメントや対応で乗り切ろう」という旧態依然とした意識を感じさせられます。

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