日大の「学祖」と吉田松陰の知られざる"奇縁" 西郷から「用兵の天才」と賞賛された維新の志士

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1889年10月に山田顕義が創設した日本法律学校は8番目である。

ちなみに大分県の豊前・中津藩士だった福澤諭吉が江戸末期の1858年に江戸藩邸で開いた蘭学塾を起源とする慶應義塾は、明治維新と同年の1868(慶応4)年に創設されている。

そして日本法律学校から遅れること3カ月の1890年1月、大学部に文学、理財、法律の3科を加えたことから、9番目の法律学校となる。ここから私大の前身である五大法律学校は「九大法律学校」といわれるようになり、日大もその一角を占めるようになる。

これらの法律学校が大学として認知されたのは、1903(明治36)年3月に公布された専門学校令である。これにより公立と私立の専門学校が、高等教育機関として一定の地位を与えられた。それが私立大学の起こりだ。

日本法律学校はこの年の8月、日本大学と改められた。もっともこの時点で日大はまだ文部省に学士号の授与を許されていない。私立大学は1918(大正7)年の大学令によって正式に大学として認められ、多くの私立大学が生まれ、ここからそれぞれの道を歩み始めた。日大HPにある〈日本大学の歴史〉にはこうある。

〈山田顕義は、当時の法学教育は欧米法が主流で、日本の歴史や文化から乖離した知識を教えるものであり、現実に即した日本法学の研究こそが喫緊の課題と考えていました〉

日大は前身が法律専門学校だったため、今も法学部が特別な存在として扱われている。HPにはこうも書いている。

〈本学の目的・理念は、社会状況の変化に応じて、幾度かの改訂・制定が実施されましたが、本学の伝統・学風は、表現はかわりつつも、現在に脈々と受け継がれています〉

学祖に倣った危機管理学部の創設

日大の歴代総長や学長たちは、学祖の師である松陰の教えを意識せざるをえなかった。ワンマンで聞こえた田中英壽もその一人だったに違いない。田中は新たに危機管理学部やスポーツ科学部を設置したが、ことに危機管理学部の創設は学祖に倣った発想だといえる。日大HPには、大学の〈理念(目的及び使命)〉として、次のように記している。

〈日本大学の前身である日本法律学校の創立目的は、「日本の法律は新旧問わず学ぶ」「海外の法律を参考として長所を取り入れる」「日本法学という学問を提唱する」という3点。

欧米法教育が主流な時代にあって、日本法律を教育する学校の誕生は、大いに独自性を発揮することとなりました〉

ちなみにHPには、〈高度経済成長期の日本大学を牽引〉した人物として、古田重二良の名も刻まれている。古田は世界に類を見ない巨大な私立大学グループを築いた功労者として日大の歴史に光と影をもたらした。日大の学生数を増やすべく、学部の新設に血道をあげる。それは危機管理学部の新設をはじめとした田中の大学運営にも引き継がれていった。

(敬称略)

森 功 ノンフィクション作家

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もり いさお / Isao Mori

1961年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。岡山大学文学部卒業後、伊勢新聞社、『週刊新潮』編集部などを経て、2003年に独立。2008年、2009年に2年連続で「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞」を受賞。2018年には『悪だくみ 「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』(文藝春秋)で「大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞」受賞。『同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録』『ならずもの 井上雅博伝――ヤフーを作った男』『地面師 他人の土地を売り飛ばす闇の詐欺集団』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』(以上、講談社)、『総理の影 菅義偉の正体』(小学館)、『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』(幻冬舎)など著書多数。

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