常識を覆した起業家、
サー・トーマス・リプトンとは?
5つのイノベーションを起こせた理由

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「大切なことは、ビジョンをもち、決断し、
素早く行動すること。
それがチャンスをつかみ、
そしてチャンスを生かす道なのだ」

 

理想を持ち、挑戦し続けた
サー・トーマス・リプトン 成功の軌跡

トーマス・リプトンの両親はアイルランドの農民であり、スコットランドのグラスゴーにはジャガイモ飢饉によって移ってきた難民だった。貧しい生活の中、トーマスには経済的な独立心が芽生えた。そして、両親が祖国から船で仕入れる商品を受け取りに港に行くたび、アイルランドはもちろん、アメリカやアフリカなど、世界の国々を股にかけた実業家になりたいという夢を持つようになった。 

その夢を実現するチャンスが目の前に現れた時、彼の決断と行動は早かった。13歳の時、蒸気船のキャビンボーイの仕事を見つけると両親の反対を押し切って乗り込み、15歳の時には憧れのアメリカに渡った。農園での運転手や百貨店の食品売り場での販売員など、様々な仕事を経験した彼は、19歳の時、故郷に戻った。自分の店を開くと、その拡大というビジョンのために突き進んだ。

1880年代に入ってから、英国で紅茶を日常的に飲む習慣が定着し、消費量が増加しているのに興味を持つと、独自のブレンド製品の開発と販売というビジョンを掲げ、いち早く実現。紅茶事業に様々な知恵を絞り、常に斬新な方法の採用を決断してきたのは、すでに述べたとおりである。

懸命に働いた彼のオフィスの机の前には、額に入った座右の銘が置かれていた。 

「商売ほど楽しいものはほかにない」 

もうかったお金は私生活には使わず、素早く次々と商売につぎ込むのが、1店目からの一貫した方針だった。結果、的確なタイミングで事業を広げることができ、さらなるチャンスも舞い込むことになった。続々と店舗や工場、倉庫など設備を増やし、従業員も紅茶事業が波に乗る頃には総勢1万人を超すまでになった。

"DIRECT FROM THE TEA GARDENS TO THE TEA POT"とコピーが書かれたリプトン紅茶の宣伝ポスター(1892年)

もうひとつ、彼の商売には母から教わった次の鉄則があった。 

「生産物は問屋からではなく、
作っている人から直接買いなさい」
 

彼が紅茶の販売を行うに当たり、事業開始1年目ですぐにセイロン島を訪れ、滞在中の数週間に10万ポンド以上の投資を行い、瞬く間に農園を手に入れた背景には、この教訓があった。最上の品質の紅茶を仕入れて消費者に届けるという彼の信念は、「茶園から直接ティーポットへ」という名スローガンと、その言葉どおりの商品として結実することになった。ビジョンと決断、行動を直結させ、チャンスをつかむ哲学がここにも見える。
 

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