キリン、ブドウ畑に見る「環境と経営の深い関係」 飲料事業の裏には醸造哲学「生への畏敬」がある

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シャトー・メルシャンの「椀子(まりこ)ワイナリー」
ワインを語るうえで欠かせない言葉がある。それが、「テロワール」だ。フランス語で「産地の個性」を指し、降雨量、日照量、標高、土壌など、その年にその土地を包み込んだ環境のすべてを総称する言葉である。この言葉が、キリングループの環境ビジョン、自然資本と気候変動への対応を進めるキーワードでもあるという。はたしてどういうことか、長野県上田市にあるシャトー・メルシャンの「椀子(まりこ)ワイナリー」を訪ねた。

目指すのは、日本庭園のようなワイン

長野県上田市の陣場台地に広がる約30ヘクタールのシャトー・メルシャン椀子ヴィンヤード(ブドウ畑)の中に椀子ワイナリーはある。「ブドウは、その土地の土壌や気候などが反映される果樹であり、ワインの個性になります。極端な場合は、50メートル離れた畑からまったく違ったワインが出来上がる。ワインの味わいは、その土地に固有であり、その土地で栽培されるブドウに依存しています」。長年ワイン造りに取り組んできたワイナリー長の小林弘憲氏は語る。

「だから、ここで欧州や米国で造られるようなワインを造っても意味がない。私たちが目指すのは『日本庭園のようなワイン』。石やコケ、木が調和した日本庭園のように、アルコール度数やタンニン含有量、味わいの繊細さ、見た目の輝きなどが緻密に調和したワインを造り、世界に発信することが使命だと考えています」

シャトー・メルシャン 椀子ワイナリー長 小林 弘憲氏
小林 弘憲氏
シャトー・メルシャン
椀子ワイナリー長

言うまでもなく、おいしいワイン造りには質の高いブドウが何より重要だ。

「陣場台地は日照時間が長く降雨量が少ない気候。さらに程よい風が吹き抜けるため、ブドウに適度な負荷がかかります。糖度やタンニン、色素をたっぷり蓄えた、質の高いブドウができやすい理想的な環境です」(小林氏)

近年日本ワインの市場が広がり、キリングループのメルシャンでは遊休荒廃地をブドウ畑に変えてヴィンヤードを拡大してきた。さらに、周囲の自然環境に悪影響を与えることなくブドウ栽培を継続することが必須だという考えから、キリンはブドウ畑の生態系調査を開始。具体的には、2015年から農研機構との共同研究を実施し、椀子ヴィンヤードに希少種を含む288種の植物と168種の昆虫が生息していることを確認した。

シャトー・メルシャンの「椀子(まりこ)ワイナリー」
シャトー・メルシャンの「椀子(まりこ)ワイナリー」
垣根栽培では、ブドウの実が人の腰の高さにできるため、収穫の身体的負担が小さい。そうして出来上がった椀子のブドウは実が小さく、凝縮された味わいが特徴だ

さらにキリンはこの調査によって、ブドウの栽培方法が椀子ヴィンヤードの豊かな生態系維持に貢献していることを突き止めた。食用ブドウに多い棚栽培と異なり、椀子ヴィンヤードは垣根栽培・草生栽培で、土壌の流出を防止するために下草を生やし、作業上の必要性から定期的に下草刈りを行う。これが良質かつ広大な草原の創出につながり、現地の生態系を豊かにしているのだ。

現在、自然資本において、生物多様性の毀損に歯止めをかけ、自然をプラスに増やしていく〝ネイチャーポジティブ〟が注目されている。22年9月には、環境省が主催する「生物多様性のための30by30アライアンス」の後期実証事業に、椀子ヴィンヤードが参加した。実証事業に参加した50を超える場所の多くが森林活動である中、事業拡大と同時にネイチャーポジティブに貢献する生産地として注目されている。

事業と自然資本の関係を象徴するテロワール

キリンは主力商品「キリン 午後の紅茶」に使われる茶葉の生産国・スリランカでも、農産物の持続可能な生産を担保するための活動を、2013年から継続して実施している。同商品は、約30年前に発売して以来、主にスリランカ産の茶葉を使用しており、そのことをブランドの重要な要素として広報・宣伝にも活用してきた。スリランカ産の茶葉が利用できないとなれば、その影響は計り知れない。

このことからキリンは長年、紅茶葉農園が「レインフォレスト・アライアンス認証」※1(以下、認証)を取得するための支援を行っている。担当者が毎年現地を訪問して農園マネージャーと情報交換を行い、現地固有の課題を把握してきた。その中でスリランカの紅茶葉農園が気候変動による大雨や渇水に苦しんでいることを知り、18年からは、農園内の水源地保全活動や、野生生物の捕獲を防ぐプログラム支援も開始している。

スリランカ産のレインフォレスト・アライアンス認証茶葉
「キリン 午後の紅茶 ストレートティー 250mlLLスリム」
スリランカ産のレインフォレスト・アライアンス認証茶葉を90%以上使用している、「キリン 午後の紅茶 ストレートティー 250mlLLスリム」

 水資源でも早い時期から対応を進めてきた。キリングループの主な事業エリアは日本と豪州。豪州は慢性的な渇水状態にあり、大規模な水リサイクルシステムを導入している。日本は比較的水資源が豊かであることから、節水を行いつつ、温室効果ガス排出を伴う水リサイクルシステムの大規模導入は避けてきた。水資源においても、課題は土地固有であることを前提とした施策だ。

キリンホールディングス 執行役員 CSV戦略部長の藤川宏氏はこう話す。「20年に発表した『キリングループ環境ビジョン2050』の最も重要なメッセージは、『ポジティブインパクトで、豊かな地球を』。そしてこの背景にあるのは、『生への畏敬』というキリンの醸造哲学です。麦芽もホップも水も酵母も、ビールの原料はすべてが自然の恵み。おいしいビールを造るには、生命科学を究める必要があるという考え方です。

キリンホールディングス 執行役員 CSV戦略部長 藤川 宏氏
藤川 宏氏
キリンホールディングス
執行役員 CSV戦略部長

そして〝生〟が拠って立つ自然は、〝場所〟に依存しています。ワインのテロワールが示すように、キリンの商品は『土地固有』の農産物と水に依存しており、気候変動の影響を大きく受けるのも農産物と水です。さらに容器包装という点では紙容器は森林由来ですし、使用済みペットボトルは不適切に処理されると河川や海洋の生物に悪影響を与えます。当社の環境ビジョンで重点テーマとしている『生物資源、水資源、容器包装、気候変動』は、どれか1つに焦点を当てるのではなく、統合的なアプローチが不可欠なわけです」。

キリンの事業と自然資本の関係を象徴しているのが、椀子ヴィンヤードにおける生物多様性保全の取り組みやスリランカでの認証取得支援であり、これを象徴するワードが「テロワール」というわけだ。

気候変動と自然資本への統合的なアプローチ

キリンは2018年に日本企業の中でもいち早くTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース※2)に賛同し、試行開示したことで知られる。21年にはTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース※3)が設立され、気候変動だけでなく生物多様性の保全を含めた統合的なアプローチへと論点が移りつつある。キリンはこれを受け、22年7月にTNFDが提示する「LEAPアプローチ」※4を活用し、世界初となる試行開示を行った。SBTN※5が掲げる「AR3Tフレームワーク」に基づいた試行開示も実施済みだ。

キリンの統合的アプローチ

同社がこれほどスピーディーに対応できたのは、10年に名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)を機に、生物資源や水資源の保全を開始していたためだ。

「取り組みを始めた10年代初めには事例もなく、同じビジョンを持つ他社やNGOとコンソーシアムをつくってサプライヤーとのエンゲージメントから始めるなど、手探りで進めてきました。今年3月、LEAPアプローチを見たとき、その内容が、当社が試行錯誤で10年近く行ってきた施策や実感している課題と非常に近しいことに気づき、当社の実績をLEAPに当てはめて試行開示を行うことにしたのです。国際的なフレームワークを活用することで、環境課題には統合的に対処する必要があるのだと、わかりやすく示せたと思っています」と藤川氏は振り返る。

NGOや他企業とのコンソーシアム、地域との協働、さらにはグローバルなイニシアチブへの参画も、統合的アプローチの一環だ。

統合的アプローチを支えるCSVパーパス

キリンの研究者たち
研究者たちが椀子ヴィンヤードに通い、豊かな生物多様性について調査を行っている(右)。絶滅危惧種の蝶の幼虫の餌となるクララ(左)などが見られる

こうした活動の土台となっているのが、キリンの「事業を行う地域の社会課題を解決しながら、経済価値の向上を目指す」というCSV経営の理念だ。その指針として、酒類メーカーとしての責任を果たし、「健康」「コミュニティ」「環境」の社会課題に取り組むというパーパスを定めている。

「当社は社会的責任として、さまざまな地域に支援を行ってきました。しかし、支援を持続するには経済的価値という視点も必要だと考えた経営陣の意向で、CSVの考えを経営戦略に取り入れることにした経緯があります」と藤川氏は語る。実際、スリランカの認証農園茶葉を使った商品の発売や、再生PET樹脂を100%使用したペットボトルの活用など、マーケティング活動への利用も進んでいる。

「一方で、さらに加速が必要な分野も存在します。CSVパーパスの『酒類メーカーとしての責任』『コミュニティ』に関する取り組みも継続して進めていくとともに、『健康』ではヘルスケア事業を拡大していきます。パーパスに定めた分野で、経済的な価値の創出を積極的に進めていく予定です」(藤川氏)

 世界中の国や企業、そして生活者に影響を与える気候変動と自然資本の課題。CSV経営を強みに、統合的なアプローチで持続可能な地球環境を目指すキリンは、日本企業のモデルケースとなるだろう。

※1:自然と作り手を守りながら、より持続可能な農法に取り組むと認められた農園に与えられる認証 https://www.rainforest-alliance.org/lang/ja 

※2:Task Force on Climate-related Financial Disclosures。金融安定理事会(FSB)により設置された、企業に対して気候変動がもたらす「リスク」および「機会」の財務的影響を把握し、開示することを提言するためのタスクフォース。キリンのシナリオ分析について、詳しくはこちら

※3:Taskforce on Nature-related Financial Disclosures。企業などが自然に関連したリスク情報開示を行い、2030年までに自然の減少を食い止め回復軌道を目指し、情報開示を行うためのフレームワークの開発、提供などを行う国際的な組織 

※4:Locate、Evaluate、Assess、Prepareの4つの観点から、分析アクティビティーを行うもの。〝場所〟に焦点を当てて自然資本への依存や影響を評価し、優先順位をつけて取り組むという点で、新しいアプローチ。キリングループの2022年の開示内容は以下の通り。https://www.kirinholdings.com/jp/investors/files/pdf/environmental2022_04.pdf  

※5:Science Based Targets Network。科学に基づく目標を設定するための国際的なネットワーク組織