日本では「グローバル化対応」が政策を導く基本認識となっている。教育でも「スーパーグローバル大学」(文部科学省が37大学を選定)から小学校での英語必修まで、実態の冷静な検証もないまま、性急に改革が行われる。かつての「ゆとり教育」導入時とよく似ている。
つまり、政策目標とそれを実現する手段についての検討のないまま、しかも人や予算などの資源を十分に確保しないまま改革が進んでいる。
グローバル化の不安とそれへの対応の遅れという切迫感があるからだろう。経済力で中国や韓国に追い上げられ、日本の優位性が保てなくなってきたという焦りも背中を押す。
歴史的に見れば、経済や社会制度について、教育を含め、日本は欧米に追いつき追い越せのキャッチアップ型で成功したと見なされてきた。ところが日本はすでにキャッチアップ段階をとっくに終えたのに、追いつき型で成功しているアジア諸国の追い上げに焦るせいか、「遅れ」やランキング争いを気にするキャッチアップ時代の意識に戻ってしまった。大学世界ランキング100位以内を目指す政策は、その最たるものだ。質や中身の議論のないままに、英語で教える授業を増やすことでランク入りを目指そうとしている。
だが、いま進められているのは、文字どおり、言葉のうえだけの「英語重視」だ。中身や質が問われず、教える言葉だけ変えようとしている。もし文科系の優秀な外国人教員・学生を日本に呼び込みたいのなら、日本の何が世界にアピールできるか、中身の議論が先のはずだ。だが実際は、キャッチアップは終わったはずなのに、いまだに日本は英米を後追いする習性から逃れられていない。
どの国も、経済のパフォーマンスが悪いときにはたいてい教育が悪者になる。将来のためと称して為政者は教育をいじりたがる。教育は効果が表れるまでにタイムラグがあるから、都合もいい。
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