
教育を止めなかったテクノロジー革命
2020年、春。新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で、各大学は対面の講義をオンラインに切り替えることを余儀なくされた。しかし、環境が十分に整っていない大学では、新学期の授業開始日を繰り下げる事態となった。こうした混乱の中、学事暦どおりに新学期を迎えたのが「日本医科大学」だ。
なぜ可能だったのか。同大学医学教育センター教授 医学教育研究開発部門長の藤倉 輝道先生は次のように答える。
医学教育研究開発部門長
藤倉 輝道先生
「COVID-19とは関係なく、本学では医科大学版テクノロジー革命を進めてきました。16年からは段階的にICTを活用した学習環境を整備。ほぼすべての講義を収録・ライブラリー化し、関連資料も学修支援システム(LMS)で公開しているので、学生はいつでも、どこでも学べる体制が整っていたのです」
同大学では学生たちの研究活動や海外留学を促進するために、18年度から成績優秀者に対して次年度の授業出席に代わってe-learning履修を可とする特別プログラム制度を実施している。こうした下地があったことも、対面からオンラインへの移行を円滑にしたといえる。
現在すべての講義、実習、実験、演習などをオンデマンドやWeb会議システムによるライブ配信なども含めたe-learningで行うほか、「3密」を避ける形でのハイフレックス型授業も導入している。
だが、臨場感が求められる対面講義や臨床実習がままならない状況にあるのは確かだ。どれだけ緊張感とリアリティーのある研修を積めるか、いかに多くの症例を経験できるかが、医師の資質を大きく左右する。そこで今、大いに力を発揮しているのが、人型シミュレーターやVRシステムなどのハイテクツールだ。
シミュレーターやVRでリアルな実習が可能に
例えば、問題基盤型学習(PBL)と呼ばれる授業では、紙ベースで課題シナリオ(患者の病歴や来院に至る経緯など)が提示され、何が問題か、どう診断を下すかといったことを小グループに分かれて討議を行っていたが、これを遠隔PBLに置き換えた。メイン教室を初療室に見立て、その名も「シナリオ」という人型シミュレーターを設置し、代表の学生が「シナリオ」から提示される臨床課題に取り組む。その様子はほかの学生がいるサブ教室の大型電子黒板に同時中継され、画像データや検査データなどの情報も共有される。

紙ベースと異なるのは、学生が自ら所見を取りにいかなければ、課題が提示されない点だ。「時間経過に伴い『シナリオ』は病状が悪化するようにプログラムされているため、ぐずぐずしていられません。培ってきた医療知識を総動員してアウトプットを図るという、臨床現場に近い学習体験をすることができます」(藤倉教授)。
「シナリオ」が主に内科的疾患の臨床実習に役立てられるものとすれば、外科的治療に対応するのがVRシステムだ。元は同大学救急医学分野大学院教授・同大学付属病院高度救命救急センター長の横堀 將司先生が、産学協同で開発した「救命救急VR」による臨床実習を18年から開始。以前から計画していた、手術室のVRライブ配信とデータ蓄積を実現する「オペクラウドVR」の臨床実習も20年8月に実施した。
日本医科大学付属病院高度救命救急センター長
横堀 將司先生
「現状では学生たちに、気管挿管などの救急処置を直接見せられませんが、現場に設置された360度カメラから送られてくる映像を、学生が装着したVRゴーグルを通して、かなりの没入感をもって見ることができます。学生は今、リアルな体験を欲しています。そのような状況下での実習なので、学生からは『将来どんな医師になりたいのか、改めてイメージすることができた』と好評を博しています」と横堀教授は手応えを感じている。
VR臨床実習の最たる利点は、目線を共有できるところにある。360度カメラは2台設置され、それによって、例えば医師目線、看護師目線でコンテンツを2つに分けることができる。また、カメラの1台は手技を行う上級医目線にして、もう1台を高い位置に設置すれば、多職種のメディカルスタッフの動きを異なる角度で見渡せる。教育目的に合わせてカメラ位置を変えることで、臨場感、緊迫感の伝わる多彩なコンテンツを作り上げることが可能だ。

また、ゴーグルを装着している学生の目線の動きも計測し、AIを使って解析できる仕組みになっている。教員は自身のタブレットと学生のゴーグルを連動させ、救命の現場ではどこに着目すべきか適宜、明確に指導することができる。

最新医療の修得と人間性を育むために
目下の課題は「VR教育コンテンツ数の充実」と横堀教授は言う。他大学・施設および企業とでいくつかの共同プロジェクトを立ち上げ、コンテンツ開発に取り組んでいる。21年度内には現在のコンテンツ数が4倍程度に拡充される見通しだ。
もちろん良質な医療を提供するためには、患者およびメディカルスタッフとのコミュニケーションが不可欠だ。これまで多くの市民ボランティアに「模擬患者」として、学生の医療面接の練習相手を務めてもらってきた。これをオンライン化するとともに、「医工連携」の一環で東京理科大学と共同開発したアンドロイド型模擬患者「SAYA」の高機能化を急いでいる。

「『SAYA』は非常にリアルに顔で喜怒哀楽を表現できるのが特徴。内蔵センサーによって、医師役の学生とアイコンタクトや声のトーンなどの良しあしを客観的に評価できるのが利点です。AIを搭載し進化しつつあるので、いずれ模擬患者に代わるトレーニング役になるでしょう」(藤倉教授)
このほか同大学付属病院の病室と学生たちがいる部屋とを有線LAN使用のパソコンで接続し、感染予防対策と個人情報管理を徹底したうえで、医療面接実習が行えるようにする予定だ。メディカルスタッフとのコミュニケーションも、すでにチーム医療臨床実習を実施するなどの対策を取っている。
「大学医学部はさまざまな試みを実証し、社会実装へつなげる最先端ラボです。この先、VR技術を使うことで医師がいない災害現場でのプレホスピタルケアが可能になるなど、未来型の医療が実現することで、医師の役割、働き方も変わるはずです。われわれ大学側も時代に即した医学教育を提供していかなければなりません」(横堀教授)
コロナ禍でも教育を止めなかった日本医科大学。テクノロジーとヒューマニズムの調和を図りながら、新しい時代への挑戦も止まることはない。
学長インタビュー
「克己殉公」の精神で未来型医学教育を推進
弦間 昭彦氏
──コロナ禍は、日本医科大学の医学教育にどのような変化をもたらしましたか。
弦間 「医学×ICT」が加速し、学生たちの時間的、空間的自由度が増したことが挙げられます。すべての学生が時間割に縛られることなくコアな部分の学習をe-learningで進められる一方、興味がある分野の研究や留学準備のための語学学習などに時間を充てやすくなりました。
また、シミュレーターを通じて身体所見を取るということも、オンライン講義で行いました。今後、遠隔診療が本格化することを考えると、より客観的な判断を下せることが重要になっていきます。大学側としては、学生たちの能動的学修を支援していくために、ICTを活用した教育体制を一段と進化させるとともに、コロナ禍で得た知見をしっかり未来の医学教育につなげていく所存です。

ただ、テクノロジーが発展する中で、患者さん側から心配されているのは、医師の人としての資質です。治療に専心してしまい、患者さんのお気持ちが置き去りにされるのではないかとお感じのようです。私どもとしても、優れた医療知識・技術を備えつつ、患者さんに寄り添える医師をどのように育成していくのか、改めて考える機会となりました。今年度はカリキュラムを変更する時期でしたが、1年延期し、本学がどのような医学教育を目指していくか、見極めていこうと思っています。
──具体的には?
弦間 まず教育の個別最適化です。例えば、現在e-learningで学べるコンテンツに加え、医師としての「心」の部分の教育については、もっと掘り下げたものを用意する。研究配属も医療領域だけではなく、AIやビッグデータ、バイオインフォマティクス、ロボティクスなどにも広げられるよう、すでに「医工連携」の枠組みで早稲田大学や東京理科大学の研究室に配属できるようになっていますが、さらにそうした環境を整える。画一的な教育ではなく、学生の学修状況や個人の興味に応じた能動的な学び方ができるように、教育を個別化していくことを考えています。
──ポスト・コロナの医学教育はどうなっていくのでしょうか。
弦間 医療のDXが進むことで、医師の役割も変わっていきます。例えば、医師が身に付けるべき医療知識はすでに膨大になっていて、重要性の低い知識・情報はいずれAIやアンドロイドで補完・代替されると予想されます。こうした医師の役割変化に応じたカリキュラムへの移行、新しい学修機会の提供が当然、必要になります。
一方、AIは記憶や計算が得意ですが、総合的な判断力やコミュニケーション力は人間に及びません。ですので、その部分の教育はさらに重点化していくつもりです。

本学は学是に「克己殉公」(我が身を捨てて、広く人々のために尽くす)を、教育理念に「愛と研究心を有する質の高い医師と医学者の育成」を掲げています。創立以来145年にわたり人間性豊かな医師や医学者を育んできました。時代の変化の中で、その精神は一層、重要度が高まると思います。これからも原点を忘れずに、本学は医学教育に尽力してまいります。