近代以降、中国が欧米や日本に敗れ続けた理由 国民国家という圧倒的不利なシステムの代償

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モンゴル帝国はまた同時に海上への展開も開始していて、日本の「元寇(げんこう)」もどうやらその一環です。首都の北京に江南の糧食・物資を運び入れるのに海運を使いましたし、インド洋の海路を使った使節往来や民間交易も進めました。ムスリム商人が以前からそこで交易しており、中国にも来ていたのですが、モンゴル帝国はその組織化を試みたわけです。

こうしたモンゴル帝国の誕生と繁栄は、唐宋変革を経たアジア史・中国史の展開の集大成・到達点だった現象ともいえます。

9世紀以来、温暖化に転じた遊牧世界・農耕世界は、それぞれが大きな発展をみせました。半面そのゆえにこそ、互いの相剋を免れず、安定した秩序を求めて模索を続けました。そうした模索がこの時期、政治的・社会的に結実して、モンゴル帝国として1つにまとまったとみることができるでしょうか。

「14世紀の危機」と明朝の成立

モンゴル帝国の建設と繁栄の前提には、地球規模の気候変動・温暖化と東アジアの経済発展・唐宋変革がありました。では、その前提が崩れれば、いったいどうなるのでしょうか。

14世紀以降、地球は寒冷化に向かいました。そこで起こった数々の混乱現象は、ヨーロッパの歴史学において「14世紀の危機」と呼ばれています。とくに「黒死病」(ペスト)が有名ですが、これは中央アジア・モンゴル帝国で発生したものが伝染していったことが明らかになっています。

ですから、「危機」はヨーロッパばかりではありません。ユーラシア規模のものです。モンゴル帝国はこれで解体、消滅したといっても過言ではありません。

その影響が最も顕著だったのが、ほかならぬ東アジア・中国です。各地で反乱が多発して、モンゴル政権の支配は瓦解しました。クビライの作った草原世界と農耕世界を統合するシステムも機能不全に陥り、モンゴル政権は草原に撤退して、再び遊牧国家に回帰しました。

代わって、中国の農耕世界を統一支配したのは明朝です。明朝政権は「14世紀の危機」を初期条件に発足しました。

当時の中国は、寒冷化による疫病や災害の発生・生産の低下・商業流通の沈滞・景気の落ち込み・治安の悪化など、およそ社会経済的にドン底の状態だったのです。そこで政権は、庶民を直接に掌握し、とにかく農業に従事させて生産力の回復をはかりました。

そのために極端な農本主義・反商業主義をとって、通貨を使わぬ現物主義を徹底させ、地主・資本家などの有力者を弾圧しました。もちろん貿易もご法度で、厳重な一種の鎖国政策をとります。

当面の経済リハビリには、こうした政策が功を奏したかもしれません。しかしあくまで「危機」に対応した措置でしたから、「危機」が去れば、政策が転換して当然だとわれわれは考えます。しかし中国史はそうなりませんでした。明朝の反商業主義・現物主義・鎖国主義は、以後一貫した国是として続きます。

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