ロシア革命100年、なぜこうも忘れられたのか 社会主義・共産主義運動は「反革命」になった
1917年10月25日(新暦では11月7日)、ロシアの首都で労働者や兵士による武装蜂起が起きた。ロシア革命(十月革命)である。それからちょうど100年の節目を迎えたわけだが、ほとんど語られることはなく、すっかり忘れ去られた感がある。
いつの時代にも、歴史を規定するのは現在である。客観的歴史などというものなどない。事件を巡る解釈の変化は、いくらでも行われる。しかし、ロシア革命の場合は、たんに解釈が変わったというレベルではない。「無意味な革命」として歴史から抹殺されようとしているのである。
なぜ、ロシア革命が歴史から抹殺されようとしているのか。そのことについて考える前に、1789年のフランス革命の解釈の変化について述べていく。実は、「フランス革命の解釈の変化」と「ロシア革命の歴史からの抹殺」は密接に関係しているからだ。
フランス革命は民衆革命に変わった
奇しくもベルリンの壁が崩壊する1989年、フランス革命200年記念の式典がフランスでは華やかに開催された。そして、このきらびやかな式典の脇で、フランス革命を専門とする学者による地味な会議が開かれた。
会議のテーマは、フランス革命をめぐる解釈の見直し。この会議によって、これまで信じられてきた解釈が大きく変わった。それまではブルジョワ(市民)革命説であったが、自由を求める革命、近代的個人の確立を目指す革命説へと変わったのである。
個人が身分制から解き放たれて自由の身になることは、絶対王政が近代的官僚制に変化し、政治が民衆のものになることを意味する。近代国家が成立し、中央集権によって政治システムが機能することにも繋がる。フランス革命はその意味で、「ブルジョワだけ」ではなく「民衆全体」による自由の確立であったとされたのである。
しかしこうした言説の背景には、1968年五月革命の解釈の変化があった。五月革命は、発生当時には学生や労働者による社会革命運動の一つとして捉えられていたのが、それが新しい資本主義社会に移るための自由を求める運動と解釈され始めたのだ。ここでいう新しい資本主義社会とは、洗練された資本主義、あらゆる旧い慣習から解き放たれた自由と平等(競争の自由、機会の平等)を意味する。いいかえれば、シカゴ・ボーイズたちが唱える新自由主義革命と一致するものとして解釈され始めた。
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