知られざる真田信繁が討死の頃の「世界史」 日本史と世界史の「同時代感覚」が足りない
大坂城天守に撃ち込まれたイギリス製大砲の威力
日光東照宮に眠るはずの徳川家康だが、なぜか大阪府堺市にある臨済宗南宗寺の境内の一角に家康の墓がある。
なぜ、家康の墓が堺にあるのか? 土地の伝承によれば、大坂夏の陣に際して、家康は大坂方の必死の猛攻に耐えられず、駕籠に乗って逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。または真田信繁の鉄砲に撃たれ、堺まで落ち延びたところで息絶えた。
側近たちは大坂方に家康の死を知られるのを恐れ、とりあえず南宗寺の境内に埋めた。すでに徳川幕府は秀忠が2代将軍を継承しているが、家康の死が喧伝されれば、大坂方に寝返る大名が出るに違いなく、家康の死は極秘にされたというのである。
この伝承の真偽はともかく、大坂夏の陣で家康が肝を冷やしたことは事実だった。
大坂城は豊臣秀吉が築いた天下の名城。どれほどの大軍で攻めようとも、容易に落とせる代物ではなかった。


















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