大坂の陣、「真田幸村の奮戦」でも敗れたワケ

豊臣秀頼が「あの選択」さえしなければ…

真田幸村が奮戦した「大坂の陣」。戦いを避け、豊臣家が生き残る道があった(写真:Royaltiger / PIXTA)
徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした「大坂の陣」は、家康の天下統一最後の総仕上げとして知られている。
家康はすでに弱体化した豊臣家を執拗に挑発し、やがてその策略にはまった秀頼は、絶望的状況で奮戦するものの、ついに敗北。江戸幕府の全国統治はここに完成する。
一般的に「大坂の陣」は、豊臣秀頼側にまったく勝ち目のない「悲劇の戦い」として、豊臣家が滅亡を逃れて存続できた可能性はまったくなかったとされている。しかし、事実はそうではない。
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本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「大坂の陣」をテーマに、豊臣秀頼の「滅亡を逃れる道」を解説する。

「悲劇の始まり」は二条城会見?

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1611(慶長16)年3月28日、京都二条城の玄関口で、徳川家康は「ある人物」の来訪を待っていました。

その人物は、大坂から船で淀川をさかのぼり、大行列とともに二条城へとやってきます。これを出迎えた家康は、そこに姿を現した「ひとりの青年」を見るなり仰天したといいます。誰あろう、彼こそが太閤秀吉の遺児、「豊臣秀頼」でした。

数えで19歳となった彼の体格は「身長190センチ、体重100キロ」を超える巨漢だったともいわれ、家康が抱いていた「まだ10歳そこそこの子ども」にすぎなかったかつてのイメージは完全に払拭されました。

一説では、「この会見」がきっかけで、徳川家康は豊臣秀頼の「予想外」の成長ぶりに脅威を感じるようになり、それが後に「大坂の陣」へとつながっていったともいわれています。

史実が示すように、「大坂の陣」では真田幸村らの奮戦むなしく豊臣秀頼は敗北し、豊臣家は滅亡します。しかし、豊臣秀頼の決断次第では、豊臣家の「存続」はおろか「再興」の可能性さえ、実はあったのです。

今回は、「豊臣家が大坂の陣で滅んだ理由」と「豊臣家が存続できた道」を解説します。

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