大坂の陣、「真田幸村の奮戦」でも敗れたワケ 豊臣秀頼が「あの選択」さえしなければ…
「悲劇の始まり」は二条城会見?
1611(慶長16)年3月28日、京都二条城の玄関口で、徳川家康は「ある人物」の来訪を待っていました。
その人物は、大坂から船で淀川をさかのぼり、大行列とともに二条城へとやってきます。これを出迎えた家康は、そこに姿を現した「ひとりの青年」を見るなり仰天したといいます。誰あろう、彼こそが太閤秀吉の遺児、「豊臣秀頼」でした。
数えで19歳となった彼の体格は「身長190センチ、体重100キロ」を超える巨漢だったともいわれ、家康が抱いていた「まだ10歳そこそこの子ども」にすぎなかったかつてのイメージは完全に払拭されました。
一説では、「この会見」がきっかけで、徳川家康は豊臣秀頼の「予想外」の成長ぶりに脅威を感じるようになり、それが後に「大坂の陣」へとつながっていったともいわれています。
史実が示すように、「大坂の陣」では真田幸村らの奮戦むなしく豊臣秀頼は敗北し、豊臣家は滅亡します。しかし、豊臣秀頼の決断次第では、豊臣家の「存続」はおろか「再興」の可能性さえ、実はあったのです。
今回は、「豊臣家が大坂の陣で滅んだ理由」と「豊臣家が存続できた道」を解説します。
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