大坂の陣、「真田幸村の奮戦」でも敗れたワケ 豊臣秀頼が「あの選択」さえしなければ…

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それは、「夏の陣」を前に、家康が秀頼に提示した「ある条件」の受託です。

決断すべきだった「大坂からの退去」

Q5. 徳川家康が提示した「ある条件」とは?

ズバリ、豊臣秀頼の「大坂からの退去」です。

「大坂夏の陣」が始まる直前、徳川家康は豊臣秀頼に対し、「大坂から別の領地への引越し」いわゆる「国替え」を条件とした降伏を勧告しました。具体的に家康が指定した場所は「大和国(奈良県)もしくは伊勢国(三重県の大半)」のいずれかです。

これには、かつて豊臣秀吉が徳川家康に対して行った「関東移封への意趣返し」的な意味合いも込められていたと思います。

Q6. 徳川家康は「関東への移封」に恨みをもっていた、と?

そうです。かつて家康は豊臣秀吉によって、現在の東海・甲信地方から関東への国替えを命じられました。

この国替えでは石高こそ増えたものの、上方(かみがた)からも遠い当時の関東地方は大変な田舎で、そもそも三河(愛知県東部)が出身の家康にとって「屈辱的」なものでした。それを、執念深い家康は忘れてはいなかったのです。

また、関東は旧北条氏の治世下、良政で農民らの信頼が高かったため、家康は移封後の関東では新治世に苦労しました。

Q7. でも、豊臣秀頼は「国替え」には応じなかったのですね。

そうです。この最後通牒を受託しなかったことで、「夏の陣」が始まりました。

この国替えは、当時の豊臣家の境遇や幕府に逆らったという状況から考えて、それほど「ひどい条件」とも言い切れません。

石高こそ、それまでの65万石から「大和国44万石」「伊勢国57万石」に減ることになりますが、関ヶ原で徳川に歯向かった大名は「領地召し上げ」「取り潰し」になっています。「大和国、伊勢国への国替え」は、処遇としてはむしろかなり甘い措置ともいえ、関東移封のときの家康と比べても、決して屈辱的な内容ではありません。

Q8. もし「国替え」に応じていたら、どうなっていましたか?

豊臣家は存続し、豊臣の天下を再興する機会もあったかもしれません。

国替えに応じて徳川幕府の大名となることで、真田幸村をはじめとする多くの有力家臣を、引き続き雇用することも可能となります。家康は「大坂夏の陣」の1年足らずの後に天寿を全うするので、そのタイミングで再び幕府に反旗を翻せた可能性さえあります。

家康をして「その利発さに脅威を抱かせた」ほどの秀頼ですから、きっと新天地で心機一転、能力を最大限に発揮し、大坂に負けぬ賑わいをみせる城下を築いたことでしょう。いまの奈良または三重一帯は、いま以上の大都市になっていたかもしれません。

また、もし秀頼と妻で家康の孫の「千姫」との間に嫡子が誕生すれば、両家の姻戚関係はより強固となり、幕府からの「敵視」も薄れて豊臣家は安泰になったかもしれないのです。

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