もちろん、事案の内容や責任の所在が同じだという意味ではないが、会見が被害者や関係者のためのものではなく、自己主張の場になってしまうという構図が似ているのだ。
経営トップが公の場で涙を流したり、感情的になったりすることへの評価は、文化や状況によっても異なる。海外のビジネスの場では、「感情を制御できていない」と受け止められることが多い。一方、日本では、涙が誠意や責任感の表れとして共感を呼ぶこともある。
後者の事例としては、1997年の山一證券の自主廃業会見が挙げられる。当時の経営トップが涙ながらに「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!」と社員への思いを訴えた姿は、多くの人の記憶に残った。
あの涙が一定の共感を呼んだのは、少なくとも自分の苦境よりも社員のことを思う気持ちが伝わったからだ。
誰のために、何を訴えているのか。それによって、涙を見せたり、感情に訴えたりすることの評価も大きく変わってくる。
“司会ナシ”会見が映し出した「組織の弱さ」
今回の会見では、熊谷代表の話が長くなり、記者の質問への回答まで自らの思いを語る方向に流れてしまい、共感よりは興ざめを生む結果となってしまった。
質問に対しては、まず聞かれた事実を簡潔に答えることが重要だ。経営者が熱く語れば語るほど、受け手には「答えをはぐらかしているのではないか」という疑念が生じかねない。発言の長さは、説明責任を果たしたこととは無関係である。


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