この「分配」をめぐる問題の根本には、先に触れたように、倫理的な立場の衝突がある。前述の100年構想は、哲学者のピーター・シンガーが唱える功利主義的コスモポリタニズム(世界市民主義)に近いものだ。わかりやすく言えば、「国境や民族、さらには人類という種の壁さえも越えて、すべての苦痛と快楽(利益)を平等に考慮し、地球規模での善の最大化を目指すべきだ」とする倫理的・政治的思想である。
片や、政治哲学者であるマイケル・ウォルツァーやマイケル・サンデルらが擁護するコミュニタリアニズム(共同体主義)の倫理が存在する。人間の道徳的責任は、同心円状に広がる関係性から生じるものであり、わたしたちは特定の共同体のメンバーとして生きており、自らの社会の同胞に対して、遠くの見知らぬ他者に対する以上の「特別な義務」と優先的な配慮を負っているとする考えだ。言うまでもなく、多くの寄付者は後者の側にいたはずである。
そうすると、自国の相対的貧困に悲鳴を上げる子どもたちが大学進学を諦め、孤立している現実を前にしながら、「遠くの絶対的貧困のほうが客観的に悲惨だから資源を分ける」という普遍的功利主義の論理は、美談どころか「自国民(同胞)に対する裏切り」にしか映らなくなってしまう。普遍的なヒューマニズムがいわば「傲慢な上から目線の正義」に受け取られてしまうのである。
募金箱の前にまで浸透している境界
この一連の騒動は、21世紀に入っても国民国家というフレームが強固に作動していることを見事に証明している。むしろ、「炎上を通じて再帰的に境界線が引かれる(絶えず誰が同胞なのかを問いかける)」というメカニズムがそこに見いだせる。境界はもはや地理的な国境線にのみ存在するのではなく、社会のあらゆる日常空間、ネット空間、そして募金箱の前にまで浸透しているのだ。
無制限に広がりすぎたグローバル化の不確実性とリスクに脅かされた個人は、今や自己防衛のためにこそ「国民国家」という防火壁を必要としている。「誰が『われわれ』の一員であり、誰の痛みが優先されるべきか」という線引きは、生活防衛に駆られた人々の義憤といった感情の正義によって確定されていくと言っていい。国民の側が草の根レベルで引き直さなければ生存すら脅かされかねないからである。


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