とはいえ、この「同胞主義への退却」がはたして人々に安定をもたらすかどうかには疑問符がつく。第一に、資源が有限でパイが縮小し続ける社会において「外部」を切り捨てたとしても、その先には「内部における選別」の激化が待ち受けているからだ。「同胞を優先せよ」という叫びは、容易に「真に支援に値する同胞とは誰か」という純化のゲームへとスライドする懸念がある。
本来問われるべきは、政治的責任
第二に、この現象はいたずらに感情のエネルギーを空費させ、構造的な欠陥を不可視化するおそれがある。本来問われるべきは、なぜ世界第4位の経済大国でありながら、親を亡くした若者が街頭で小銭を乞わなければ大学に行けないのか、なぜ高等教育の無償化や再分配を国家が十全に果たさないのかという、政治的責任のはずだ。
けれども、人々の怒りが「なぜ国内遺児のためのお金をアフリカに渡すのか」というエピソードだけに集中すると、真の問題がかえって無傷のまま温存されることになりかねない。
国家による再分配機能が麻痺してしまった現在、人々が同胞的な確からしさにしがみつくのは、むき出しのグローバル市場の暴力に対する極めて合理的な反応と言える。だが、社会全体の猜疑心をさらに加速させる方向に作用すれば、「境界の無限の引き直し」による不安の増大と、それに伴う感情のさらなる先鋭化は避けられないだろう。
自らの足元が揺らぎ、明日の暮らしすら不確かな社会において、他者への想像力を普遍的な地球規模にまで広げることを求める倫理は、人々を反動的な行動に追いやることにしかならない。ブルーライトの炎上が照らし出したのは、国内の格差と困窮を放置したままでは、いかなる高潔な理想も根底から崩壊しかねないという、あまりにもろい日本の現実そのものなのである。



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