一方で、支援組織の方向性は、特に10年代以降、国境を越えた人道支援や「アフリカ遺児への高等教育支援」といった、世界市民的で普遍主義的な「分配」へとシフトしていった経緯がある(「あしながアフリカ遺児高等教育支援100年構想」)。ここに相互扶助をめぐる決定的な「象徴性の断絶」が生じてしまったと言える。
街頭で募金を呼びかける学生の姿に「国内の困窮する若者」の姿を投影していた寄付者にとって、集められた善意の半分が外部へ向けられていたという事実は、単なる用途の相違ではなく、「わたしたちの純粋な共同体的な営みが、上位組織によって勝手にグローバルな慈善活動へとすり替えられた」という「善意の横領感」のようなものをもたらしたのである。
再分配機能への信頼性が低下している社会で起こること
長期の賃金低迷、物価高、社会保障負担の増大により、日本の中間層は自らが「社会的弱者」へと転落する恐怖にさらされている。自分が沈みかけているボートに乗っていると感じるとき、人は「同乗者」を厳しく選別し始める。国家による再分配機能への信頼性が低下している社会では、「自らの乏しい可処分所得から絞り出した寄付金」という極めて個人的な自己犠牲が、自国の同胞ではなく外部(アフリカ)へ流出したと知って、より強烈な感情的な反発を呼び込むことになるのだ。
この点において、さらに怒りを買ったのは、結果として国内の「分配」が厳しい状況に陥っているようにしか見えなかったことである。高校奨学金申請者の増加に奨学資金が追いつかず、24年度の採用率が過去最低の44.1%と低迷し、その後は採用率が回復したものの、最新の26年度予約採用では、過去最多の1819人が申請し、34.7%にあたる632人が不採用となるなど、多くの遺児が物価高に苦しみながらも支援を受けられていない現状が、改めてマスメディアによって掘り起こされ拡散されている。


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