歴史的に極めてデリケートかつ重い意味を持つ場所であるため、商業ビルやホテルといった建物の直下として敷地化することは避けられた経緯があった。1964年(昭和39年)に池田勇人内閣が、刑場跡地の保存について閣議了解を行い、豊島区が管轄する「都市公園」として整備されることになる。
拘置所の解体以前から、戦犯関係者の遺族や有志から「刑場の跡地に慰霊碑を建てたい」という強い要望が出されていた。しかし、戦争の責任をどう捉えるかという議論や、周囲の商業開発とのバランスなどを踏まえ、「公園の敷地内に『永久平和を願って』と書かれた自然石を置く」という形で決着した。これが、現在公園の片隅にある「平和の碑」である。
静かな公園は絞首舎に行く経路だった
現在は、周囲をうっそうと茂る森が取り囲む、街の雑踏から隔離された静かな公園だが、当時は、「地獄の壁」と呼ばれる3m近い赤レンガの壁と、重々しいコンクリートの壁という二重のバリケードに覆われた刑場があった。コンクリートの壁には鉄の扉(13号扉)がはめ込まれ、その扉から中庭を通り、絞首台のある絞首舎に行く経路になっていた。
巣鴨プリズンには、時期によって2つの絞首舎が存在した。旧絞首舎(日本式)と新絞首舎(アメリカ式)だ。前者は、北側の隅にあった、東京拘置所時代からの瓦葺き・白木造りの和風建築で、主に初期のBC級戦犯の執行に使われた。内部は床下(地下部分)がある平屋建てであった。
後者は、1947年(昭和22年)頃、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって新たに建てられたブリキ葺き屋根の近代的な建物で、内部には5基の絞首台が並んで設置されており、完成後はこちらに一本化された。いわゆる「13階段」の階梯がある絞首台だ。東條英機らA級戦犯7名の死刑はこちらで執行されている。
その凄まじい情景について、巣鴨プリズンの教誨師を務め、BC級戦犯の助命減刑嘆願にも尽力した仏教学者の田嶋隆純は、「突然バターンと夜空に透る激しい音響」「深夜に聞くこの鋭い轟音は、全くズーンと奈落の底まで引きずり落されたような衝撃を与える」などと述懐している(『巣鴨プリズンBC級戦犯者の記録 わがいのち果てる日に』講談社学術文庫)。


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