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「『坊っちゃん』はコンプライアンス小説である」漱石が描いた学者の盲点と「まちがえた」と言える条件

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千円札の夏目漱石の肖像
漱石が「坊っちゃん」で描いたエリート像から学ぶべきこととは?(写真:johan11/PIXTA)
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舟津:SNSでたくさん「いいね」がつくことや、政府の委員になること、テレビにいっぱい出るといったことは、Justifiedの材料のように扱われやすい。でも、それらは必ずしも知識をJustifyできる要素ではない、ということをきちんと認識していかないといけないと思います。

與那覇:実際にコロナやウクライナの熱狂が終わり、国民がメディアに不信の目を向け出すと、正反対の現象が起き始めました。いわゆる「逆張り」で、マスコミが自分をJustifyしないことこそが、真にJustifyされるべき者の証なんだと(敵対的メディア認知)。そんな態度で選挙に出馬し、当選する例さえあります。

推し活の危険性は「自己と他者の混同」

與那覇:妄信でも逆張りでもない、メディアとの適切な距離感をどう取り戻すか。小難しい言い方をすると、「他者の他者性」を回復することが鍵だと思います。SNSでいくら専門家をフォローし、すべての発言を拡散しようとも、あなたとその人とは「別の人」なんですよと自覚するのが第一歩です。

平成に使い方が大きく変わった日本語が「推す」ですね。本来は、ノーベル賞にAさんを推します、のように、評価する人(選考委員会)に向けて推薦する行為を意味する「三者間」の言葉でした。それが「推し」なる名詞ができた後は、Aさん推しです、という言い方で、私はAさんがあまりにも好きなので、もうAさんが活躍する姿を自分の活躍だと思うことにします、と「二者関係」で使うようになっています。

これだと自分と「推し」の区別がつかなくなり、いつしかインフルエンサーの意見を口真似して、あたかも自分の意見のように話すようになる。でもこれ、真似される方にもデメリットなんですよ。熱心なファンが従来の論調に固執すると、本人が「まちがえたな」と思っていても、言い出せなくなってしまう。

ものまね芸が笑いを誘うように、違う人なのに「そっくりすぎる」っていうのは本来はギャグなんです。そんなおかしな関係になっていないか、見直す癖をつけたいですね。

舟津:僕も、専門家やスターに憧れてかぶれることはあります。誰しもあるし、それ自体は全然問題ない。大事なのは、あ、今のは完全に受け売りだな、ちょっとダサいな、と自分で思えることなんです。その内省性こそ、本来は専門家がいちばん持っているはずのものですよね。

與那覇:たまたま『コンプラ過剰社会』と同じころに夏目漱石の『坊っちゃん』を再読して、日本の近代文学の出発点が「コンプライアンス小説」だったことに驚きました。「赤シャツ」という教頭が悪役なのですが、彼は学内のスキャンダルを揉み消し、学生に目撃されないよう教員は外食を控えましょう、とコンプラを強要しつつ、自分は芸者遊びをしている。そんなダブスタにブチ切れた坊っちゃんに、最後ボコボコにされる話です。

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