もう1つは、自分の見方を「ありのままの現実」だと思い込みやすいことだ。これは「ナイーブ・リアリズム(素朴実在論)」と言われている(※3)。自分には当然に見える解釈が、別の人にはそう見えないとき、「あの人は事情を知らない」「偏っている」と感じてしまう。
さらに今回は、身支度や家事育児にかかる時間が、他人からは見えないという点も大きい。高市首相に関しても見えるのは仕上がりだけで、身支度を整える時間も、家事をしている時間も、そしてその前後の時間も、聞き手が自分の経験で埋めるしかない。
筆者の仮説だが、「3、4時間」という数字は、聞く人の朝の経験によって、まったく違う大きさに聞こえたのではないだろうか。
「一括り」を避けたとき、共感は生まれる
今回の発言をめぐる反応は、時間の長短というより、事情の違う人々への想像力に関わっていた。
立場の高い人が、自分の日常を語ること自体は自然だ。問題は、それが「女性は」という大きな主語で聞こえたとき、聞く側の事情とのズレが、違和感として表に出ることにある。
同じ発言でも、受け止め方は人の数だけ違う。だからこそ、自分の朝を語るときは「私の場合は」と語り、相手の朝を想像するときは「人によってこんなに違う」と考える。その積み重ねが、“見えない時間”への共感をつくるのではないだろうか。
【参考・引用文献】
※1:Broadbent, D. E. (1958) Perception and Communication, Pergamon Press.
※2:Treisman, A. M. (1964) Verbal cues, language, and meaning in selective attention, American Journal of Psychology, 77(2), 206–219.
※3:Ross, L. & A. Ward (1996) Naive realism in everyday life: Implications for social conflict and misunderstanding, in T. Brown, E. S. Reed & E. Turiel (eds.) Values and Knowledge, Lawrence Erlbaum Associates, 103-135.


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