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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

《豊臣兄弟!》秀吉の子ではない…「淀殿の妊娠」をあざ笑う声に大激怒、"多くの人々を死刑に"秀吉の恐ろしすぎる処罰

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豊臣兄弟! 秀吉 大河
秀吉像(写真: TAKEZO / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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戦乱の世に振り回された茶々だが、この生活もわずか数ヶ月で終わりを告げる。信長の後継者となるべく、義父の柴田勝家が秀吉と対立。「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」が起きると、勝家は北ノ庄城に籠城を余儀なくされた。城の周囲は、秀吉軍に取り囲まれて、市は勝家とともに自ら命を絶つ。

三姉妹は父に続いて母も亡くし、二度も落城を経験したことになる。もはや頼れる者は誰もいなくなり、秀吉の元に預けられた。一説によると、三姉妹を保護したのは秀吉ではなく、織田信雄ともいわれている。いずれにせよ、三姉妹がそれぞれの道を歩んだことには変わりない。

次女の初は京極高次の元へ、三女の江はのちに2代将軍となる徳川秀忠の元へと嫁いでいる。

そして、波乱に次ぐ波乱のなか、長女の茶々が行き着いた場所が、秀吉の妻だった。茶々はそこで「淀殿」として生き抜くほか道はなかった。

淀殿の懐妊で喜んだ秀吉だが

天正17(1589)年、秀吉の妻となって間もない淀殿が懐妊。秀吉は跳びあがらんばかりに喜んだに違いない。生まれた子には「捨」と名付けた。当時、「捨てられた子どもはよく育つ」と人々の間では信じられており、長寿を祈ってこの名をつけたようだ。のちに「鶴松」と改められている。

よほどうれしかったのだろう。秀吉は生後間もない鶴松を早々と後継者として内外に示している。

だが、これまで秀吉には子どもができなかったにもかかわらず、淀殿がいきなり身ごもったことから、不穏な噂が流れる。それは「秀吉の子どもではないのではないか?」という疑惑だ。人々の間では、こんな歌がふざけて詠まれたという。

「大仏の くどくもあれや 鑓(やり)かたな くぎかすがいは こだからめぐむ」

この頃、秀吉は農民から槍や刀を取り上げて、諸大名に集めさせている。「大仏を造るから」という口実だったが、秀吉は農民から武器を取り上げることで、武士が農民を支配する社会を作ろうとしていた。自身が農民から出世したからこそ、秀吉は「自分と同じように成り上がる農民が出てこないように」と警戒し、武器を奪ったのである。

この歌では、そんな秀吉の刀狩を踏まえて、こう皮肉を言っているのだ。

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