今回のケースに当てはめれば、「本人がこれまでどれだけムードメーカーとして頑張ってきたか」を重視するファンほど、同じ笑顔を「強がり」という文脈で補完し、逆にその背景よりも「今この瞬間にふさわしい態度」を重視するファンほど「笑うべきではなかった」という規範で解釈してしまう、という構図が見えてくる。
人の表情も、私たちは勝手に“パッケージ”にしてしまう?
筆者は長年、資生堂にて化粧品や日用品のパッケージデザインの研究に携わってきた。その中でたどり着いた知見の1つが、消費者は商品パッケージを見るとき、脳内で人の顔を見るときと同じ情報処理を行い、そこに人格や物語を勝手に投影してしまう、というものだ。無機質な容器のデザインからでさえ、人は「誠実そう」「攻撃的」といった性格を読み取ってしまう。
今回のケースは、いわばその逆の現象が起きていると捉えることもできる。
「重岡の表情」という生身の情報に対して、視聴者側が「ムードメーカーとしての強がり」あるいは「空気を読めない無神経さ」という、あらかじめ自分の中にある“物語のテンプレート”を勝手に当てはめてしまっているのだ。
商品パッケージが受け手にとって“顔”になるのと同じように、人の顔もまた、受け手にとっては自分の期待や思い入れを映し出す“パッケージ”になりうる――これは筆者の研究の延長線上にある1つの仮説であり、まだ実証されたものではないが、「見た目」を介したコミュニケーションが、送り手の意図よりも受け手の解釈の枠組みによって決まってしまう場面は、モノでもヒトでも変わらないのかもしれない。


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