前記の裁判を下した裁判官の一人草野耕一は、最高裁判事就任前、千葉が顧問を務める事務所の代表パートナーであった。また、菅野は、かつて、最高裁事務総局行政局局付時代に、参事官、課長である千葉の指導を受ける立場にあった〔後藤書は参事官とするが、「新日本法規WEBサイト 裁判官情報」等によれば、課長だった時期もあると思われる〔瀬木〕〕」
最高裁判事が退官後に弁護士になること自体はおくとして、原発訴訟等の社会的価値に大きくかかわる事件における被告側代理事件をかかえる事務所(巨大事務所ではそうしたことがありやすい)に就職するのは、望ましいこととはいいにくいであろう(みずからが直前に同種の事件を担当していた場合には、なおさらのことである)。
近年、巨大法律事務所の弁護士が最高裁判事に就任する例が続いていた(後藤秀典『ルポ 司法崩壊』〔地平社〕)が、これについても同じような問題はある。また、法律論の意見書は学者がその専門分野について執筆するのが通例であり、元裁判官の弁護士による前記のような意見書の提出については、法律家の常識に外れていないかとの批判も強い(欧米でも、法曹倫理の観点から問題視される可能性のある事柄ではないかと考える)。
最高裁判事の天下りについては、かねて、民間大企業の監査役や取締役への天下りが批判されてきた。これらの企業には裁判を抱えている例が当然あり、そうした企業に最高裁判事が天下りするのは、控えめにいっても「李下に冠を正す」ことであって、司法全体の信用をそこなう行為だからである。ちなみに、原発に関しては、製造企業の東芝、また東京電力に就職した人さえいる(時任兼作「裁判を歪める『裁判官の天下り』」新潮45 2014年10月号)。前記のような動きも、こうした傾向と同一のものであり、法曹倫理、司法の廉潔性の保持、公平らしさ、李下に冠を正さずという側面からみれば、より問題が大きいともいえる。
法律家がもつべきモラル
私が若かったころの最高裁判事には、まだ、よい意味での昔気質、あるいは職人気質に基づく良識があった。たとえば、私自身、若いころに、ある裁判官出身判事の「最高裁判事になってから弁護士をやったりすると後輩たちに迷惑がかかるから、退官後は弁護士もやらない」という言葉を聞いたことがある。
弁護士をやるにしても、友人、知人の事務所に入るような例が普通で、法廷では、前に立たず後ろに控えて裁判官に圧迫感を与えないように配慮している人が多かった。それが、法律家の常識、良識というものであろう。
こうした点でも裁判官たちのモラルは全般的にゆるんできている。そして、最高位の裁判官であるはずの最高裁判事たち自身が、みずから率先してそのような傾向に拍車をかけているのである。
最高裁判事からの退官者たちも、私のかつての先輩、同輩の世代から後輩の世代に移りつつあるのだが、右のような傾向が続いているのは嘆かわしい。元最高裁判事、また前記のような巨大法律事務所のあるべき姿、もつべきモラル、さらには最高裁判事選出方法の不透明性という問題については、弁護士、弁護士会、裁判官、検察官、学者をも含めた法律家全体、また社会全体で早急に考えてゆく必要のある問題であろう(拙著『檻の中の裁判官』第2章)。



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