リベラリズムの限界と失敗をあらためて跡付けた後の本書の核は、邦語タイトルが示すとおり「体制転換」と「共通善保守主義」である。
著者によれば、エリートの左右2つのリベラリズムに対抗して大衆(労働者)側に出現した非リベラルな動きがマルクス主義と、エドマンド・バーク(1729〜97年)に代表される保守主義である。
保守主義とマルクス主義は「近代リベラリズムの仕組みに対する強烈な敵意でつながっている」という著者の見解は納得できる。マルクス主義哲学者が「マルクスが保守主義者と同じ疑問を投げかけて、違う答えを出している」と論じているのも同じ趣旨だ。
リベラルエリート支配に対するマルクスの答えは、労働者階級による革命であり、保守主義者の答えは(主として労働者階級が守り、リベラルエリートが破壊してきた)伝統や慣習である。
左右2つのリベラリズムとマルクス主義は「進歩」勢力だが、いずれもが大失敗してしまった。またマルクス主義没落後に、リベラルエリート支配の「無責任さと有害さ」が際立つようになった。
その一方で、保守側では保守的な価値観を守るのは、エリートではなく多数派である大衆だという意識が強まった。著者の状況認識である。
その中で、著者は新しい保守主義の姿を描き、その保守思想に基づく「体制転換」によって、新たな統治エリートである少数派と「常識(コモン・センス)」に導かれる多数派(大衆)の「混合政体」を生み出そうと提案している。大衆の持つ「常識」と「混合政体」を考える時に鍵となるのが「共通善」であるという。
一般人の「共通感覚」に寄り添う
著者によれば、少数派(エリート)と多数派(大衆)の和解は西洋哲学の古くからの課題で、アリストテレスに始まり、キケロ、ポリュビオス、アクィナス、マキアヴェリ、トクヴィルらが考えついた答えは「混合政体」、つまり2つの階級の混合という理念だった。
プラトンが知力に秀でた少数者の統治を主張したのに対し、弟子のアリストテレスは多数者の集合知にこそ価値があると論じた。伝統的知識の膨大な蓄積ともいえる「常識」の役割を高く評価したのだ。
そうしたエリートと大衆の混合政体を生む基礎となる「共通善」について、著者はそれを「人々を根無し草にし、変革し、不安定化させる社会的秩序を避ける伝統」と述べ、政治においては「継続性、均衡、秩序、安定性」を挙げている。
また、共通善保守主義は一般人の「共通感覚」に寄り添うとしている。本書や「共通善保守主義」に対する批判として言われてきたように、どうしても概念が曖昧だ。


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