有料会員登録 東洋経済オンラインとは
キャリア・教育

朝ドラ《風、薫る》あんなに仕事熱心だった大関和が、43歳で「看護の仕事を辞める決心」までした"悲しい別れ"

5分で読める
写真はイメージ(写真: omakase / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
2/3 PAGES

東京に来た雅は、事あるごとに、マリアのお見舞いに来ていたため、新潟からやってきた和と再会することができたのだ。雅は近況を報告しながら、和にこんなオファーをした。

「東京看護婦会でも看護婦養成を始めたいんだ。あなたが帰京したら、ぜひその講師をやってもらいたい」

しかし、ちょうど新潟では速成看護婦養成の講座がスタートするところで、和がカリキュラムの大半を担当することになっていた。そのため、いったん新潟に戻り、講座の卒業生たちを送り出してから、上京。雅とともに、東京看護婦会で看護婦として働くことになる。

宣教師のマリア・ツルーが息を引き取ったのは、明治29(1896)年4月18日。和が新潟から東京に帰ってきてから数日後のことである。

まるで「和と雅を引き合わせる」という最後の役目を終えたかのようなタイミングだった。

大関和に看護のオファーが殺到した背景

ドラマでも、りんが直美の立ち上げた派出看護事業に参加し、看護婦として患者の家を訪ねては献身的な看護を行うことになる。日々の仕事に加えて、りんは直美とともに、マスコミの対応にも追われた。

「これから元家老の娘・一ノ瀬りんをうちの看板看護婦にするから」

ある日、直美がそう告げる場面があったが(第21週「定めと選択」第101回放送)、実際の大関和も、そうだった。鈴木雅の立ち上げた東京看護婦会に参加すると、看護のオファーが殺到したという。

ドラマであったように「家老の娘」という和の出自は、富裕層の顧客にとって信頼が厚いものだったが、人気の理由はそれだけではない。和の看護婦としての手腕が広く知られるようになり、担当を希望する人が日に日に増えたようだ。

そのきっかけの一つが、伝染病の蔓延である。この頃、日清戦争の帰還兵が赤痢や腸チフスなどを患っていたことから、関東各地にも伝染病が蔓延。東京看護婦会にもたびたび出動要請が寄せられることになった。

和は積極的に現場に出向いては、隔離所での陣頭指揮を担った。その結果、他の避病院や隔離所と比較しても、早く感染を収束させて二次感染も防ぐことに成功。致死率も他所よりも低かったことから、和の仕事ぶりが多方面で評価され、ますます多忙を極めた。

3/3 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

キャリア・教育

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数