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ライフ #日本野球の今そこにある危機

張本勲さんが86歳で死去 「喝!」だけでは語れない壮絶な生涯…広島で被爆、通算3085安打、韓国プロ野球創設にも尽力した知られざる人生

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2024年の巨人のファン感謝イベントで行われた球団創立90周年セレモニーに参加した張本勲さん(写真:時事)
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同世代の王貞治は父が浙江省出身の中国人、母は日本人だが、張本は父母ともに慶尚南道出身の韓国人。しかし母が妊娠中に海峡を渡り、日本の広島で張本勲を生んだために、日本生まれだ。原爆の被爆体験もある。姉は原爆で死亡している。

終戦後の広島で、厳しい差別の中で育ち、定時制高校に入学。ここから大阪の浪商高校に転校、野球の才能が開花するが、暴力事件のため甲子園には出られず。張本は事件には関与していなかったが、ここにも差別があったという。

1959年のプロ野球にはまだドラフト制度がなかったが、この年の高校生で最も注目を集めたのは、前年夏の甲子園で83奪三振の大会記録を作った徳島商の板東英二。続いて1957年春の甲子園の優勝投手、早稲田実業の王貞治だった。のちにタレント、俳優として一世を風靡した板東は「何を隠そう、私はプロ入りの時は、世界の王貞治さんより上でして」と吹聴していた。くしくも板東英二も今年7月22日に逝去している。

張本は甲子園には出場できなかったものの、その才能には複数の球団が注目し、地元広島なども加わった争奪戦になったが、岩本義行監督率いる東映に入団が決まった。高校生離れした打力を評価され、張本は新人ながら1959年の開幕スタメンに名を連ね、打率.275、13本塁打で、王も板東もとっていない新人王になった。翌年には打率.302と3割をマーク、以後、打率3割を16回記録。前述のとおり空前の打撃記録を残して、王貞治よりも1年あとの1981年に引退した。

語られてこなかった韓国プロ野球創設への貢献

引退後の張本にはたびたび「監督」のオファーがあったが、彼は引き受けていない。表立っては、張本は「野球評論家、解説者」として後半生を歩んだことになっているが、その一方で、張本引退の翌年、1982年にはじまった韓国プロ野球(KBO)の設立には、多大な貢献をした。2024年12月の産経新聞のインタビューで張本は次のように語っている。

「韓国プロ野球は私と李容一、李虎憲という3人で原案を練って作りました。李さんたちは野球好きで、プロリーグが発足する何年も前から情報を共有していました。球団はどこで、何球団にするのか。国を挙げての事業です。初代コミッショナー候補10人のリストを作って、当時の全斗煥大統領にも面会しました」

李容一、李虎憲は韓国野球の関係者だ。韓国プロ野球が設立されると張本は韓国プロ野球コミッショナー特別補佐官として日本プロ野球の下田武三コミッショナーに協力を要請。日韓の選手協定締結に尽力した。いかに大選手とは言え引退直後の一介の元選手が、日本プロ野球トップのコミッショナーに掛け合ったとは驚きだ。

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