しかし、このA-26の遭難については陸軍省が戦死認定として発表した「セイロン島西方経由の飛行経路上での英国戦闘機による被撃墜」とは別に、気象状況の悪化による乱気流遭遇説や、搭載発動機の潤滑油冷却能力の不足によるエンジン焼き付き停止説などがあり、謎のままとなっている。
見事、世界長距離飛行記録を樹立(戦時中のためFAIは未公認)
前述の機体の元々の計画当事者であった朝日新聞社、東京帝国大学航空研究所の関係者たちは、「セ号飛行」の弔い合戦とも言うべきキ77の1号機を使用してA-26本来の特徴を最大限に生かした「嘗て航研機が樹立した周回航続距離の世界距離飛行の記録を更新する」記録飛行を強く希望した。
陸軍航空本部も「贖罪意識」も作用したこともあり、昭和19年春に陸軍航空審査部により「特殊長距離飛行研究実施計画」として正式な飛行計画が作成された。「これらの研究を実施すると共にキ77第一号機に依る長時間及長距離の最大限度飛行を実施する。」と、この飛行が世界記録への挑戦であることを示唆した計画となった。
この「研究飛行」は当時まだ余力のあった満洲で、朝日新聞社航空部員のみで飛行することになり、飛行コースは新京(現在の長春)〜ハルピン〜白城子の3点を結ぶ3角コース(1周865km)と決定した。昭和19年7月2日新京飛行場を離陸した機は、途中自動操縦装置の故障というアクシデントに遭ったが、正副操縦士が交代で手動操縦飛行を続けた。
そして、翌々日の午後7時に、飛行時間57時間11分18秒、飛行距離1万6235kmの飛行(平均飛行速度287.6km/h)を終えて無事着陸した。これは、その当時では昭和14年にイタリアのサボイア・マルケッ
ティSM.82による1万2926kmの世界記録を大幅に破る快挙であった。着陸時にはまだ燃料に余力があり、これを全て消費し切るまで飛行すれば1万8000kmは確実に飛行可能と予想され計画通りの性能が証明されたわけである。
この飛行の後、プロペラ機では第二次世界大戦終結後、昭和22(1947)年にアメリカ陸軍B-29による1万4249.656kmの直線飛行記録が最長で、世界記録としてFAI(国際航空連盟)に公認されているのは、1969年にアメリカ空軍のB-52爆撃機によって樹立された1万8245kmである。
従ってキ77(A-26)が樹立した記録は、戦時中で軍の秘密でもありFAI未公認とはなったが、プロペラ機によって樹立された世界最高の記録として日本航空界のみならず立派に世界の航空界における金字塔として誇るに足る大記録である。
その後A-26の1号機は福生飛行場で保管され終戦は疎開先甲府の玉幡飛行場で迎えた。こうして東京ーニューヨークを無着陸で飛行し国際親善の平和の使途となるために計画立案された本機がその目的を果たせずに戦争終結を迎えたのは関係者にとっては痛恨極まりないものであった。
この様に数奇な運命をたどった事は、生まれた時代に恵まれなかった悲劇の名機として日本の航空史において後世に語り継がれよう。
要目性能:全長15.30m、全幅29.43m、全高3.85m、
主翼面積79.56m2、全備重量16,725kg、
発動機中島飛行機製ハ-115(特)空冷星型複列14気筒離昇
1,090馬力×2基、プロペラ3枚、可変ピッチ直径3.8m、
最大速度440km/h(高度4,600m)、
航続距離18,000km(巡航速度300km/h)、
乗員 最大8名、製作機数 2機



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