母は多いときで30人分の食事をつくり、日中は、4名ほどの従業員を連れて自治体から受託した公園の除草・清掃作業を週5日行った。愼一さんは石けん事業が軌道に乗るまで、夜、他社の事務作業を副業で行っていたという。
「子どもの頃、家族で出かけたのは一回だけです。父に遊んでもらったとかお風呂に入れてもらった記憶はないんですけど、生活寮の方たちとは一緒にお風呂に入ったり遊びに行ったりはしてたので……きょうだいっていうとちょっと大げさなんですけど、いとこのお兄ちゃんぐらいな感じですかね」
笠原さんは高校卒業後、一度は就職したものの、愼一さんが体調を崩したことをきっかけに退職。2006年に23歳でねば塾に入社した。安定した職を手放すことに不安はなかったのだろうか。
「ずっと一緒に暮らしてきた人たちが食いっぱぐれるのは嫌だなと思ったんですよ。皆さんも家族が困ってたら手伝うじゃないですか。それと同じです」
アットコスメで殿堂入りした看板商品「白雪の詩」は、笠原さんが入社したころには1カ月の販売個数が14万個にものぼり、連日深夜まで製造を行ったという。その後、地道に守ってきた品質の高さと丁寧な仕事は、人気ナチュラルコスメブランド「OSAJI」からも評価され、目玉商品の共同開発とOEM製造を担当することになったことは、前編でも紹介した通りだ。
先代の意思を引き継ぎ、自分のやり方で変えていく
ところが2016年に父・愼一さんが亡くなり、社長の座を引き継いでみると、商品の6割が原価を割っていたことが判明し、笠原さんは頭を抱えた。おおらかな性格だった愼一さんは、感覚的に値段を決めつつも、全体としては収支が赤字にならないバランスを保つセンスを持ち合わせていた。
しかし、継承した時点で借金は1億円近く。父の逝去とともにそれまで手伝ってくれていた人物が事業を持ち逃げしてしまったことも痛手だった。立て直しの必要性を感じた笠原さんは、まず、すべての商品の価格を見直した。さらに、それまで一律で同じ給料を払っていたやり方をやめ、会社で定めている6時間分働けなかった場合は、本人に確認して給与を差し引き、実際に働いた時間分だけ給与を支払うようにした。


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