だが、ねば塾は福祉事業所ではない。行政からの支援を一切受けず、石けんの売り上げで従業員に給料を払う、ただの“会社”だ。障害のある人を雇う事業体の多くが、福祉制度の枠内で運営されるなか、ねば塾はあえて制度の外で雇用を続けてきた。
折しも2026年7月、障害者の法定雇用率は2.5%から2.7%に引き上げられた。新たな採用や仕事の割り当てに多くの企業が頭を悩ませる中、なぜ半世紀にわたって、従業員の半数が障害のある職場を成り立たせてこられたのだろうか。
「俺、自分で生きてない」「生かされているだけ」
ねば塾を創立したのは、笠原さんの父・愼一さんだ。愼一さんは、高校卒業後に地元企業に就職。19歳のとき、友人に誘われて琵琶湖近くの障害児入所施設「一麦寮」を訪れた際に、夜遅く到着した自分をずっと待っていてくれた障害児に心を打たれ、「障害のある人とかかわって生きていきたい」と考えるようになる。
障害者とかかわるボランティアを経験したのちに、勤めていた会社を退職。その後は、長野県上田市で障害者施設「上田ひもろ木園」の設立に尽力し、開墾から携わった。
そして、施設で働いていたある日、玄関先におめかしをして座っている女の子を見つけた。
「どうしたの?」と声をかけると、「今日、きょうだいの結婚式なの」と言う。ところが、結局家族が迎えに来たのは夜遅く、結婚式が終わった後だった。笠原さんは、愼一さんから聞かされたその理由を、こう説明した。
「当時、まだ障害がある方っていうのはちょっと下に見られていたところがあって。相手の家族に知られるといけないと、家族だけでひっそりとお祝いをしたみたいです」
愼一さんは、障害者が不当に差別されるその現実に違和感を抱き、「施設という隔絶された場所にいるからこうなってしまうのでは」と考え始めた。きょうだいの結婚式に呼ばれなかったその子に“結婚式”を体験してほしいと、ちょうどその頃出会った妻(笠原さんの母)との結婚式は、施設内で挙げたという。
さらに、施設にいた重い精神障害の男性2人がポロリとこぼした言葉が、愼一さんを突き動かす。
「ずっとここで年金で生活してるけど、俺、自分で生きてない」
「生かされているだけじゃないか、俺は。俺も世の中で働いて、自分の力で生きたいよ」
1978年、愼一さんはこの言葉をきっかけに3年ほど働いた施設を退職し、妻と子どもがいる自宅で、その2人と共同生活を始めた。これが「ねば塾」の誕生だ。一緒に生活をしながら、近くの土木建設会社「安土倍(あとべ)組」に2人とともに作業員として雇ってもらい、開墾作業をして工賃をもらう暮らしを始めたのだ。


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