1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
憲法とは、重要な組織とその運用の仕方を規定するものであり、国家の基礎となる法律だ。近代国家になくてはならないものだが、明治政府は当初、憲法制定に消極的だった。
というより、憲法が必要だという考え自体がほとんどなかったといっていい。政府は「列国公法」、つまり国際法にひたすら盲従すればよい、と考えていたからである。
「憲法制定」に政府の腰が重かったワケ
実際、岩倉使節団の基本方針である「事由書」には次のようなことが書かれていた。
「条約を改正するためには、列国公法に従わなければならない。我が国における民に関する定めや、貿易や刑法、あるいは税における定めにおいて、列国公法に相反するものがあれば、改正しなければならない」
つまり、明治維新の基本方針は「欧米にいかに認めてもらえるか」だったため、国際法にあわせて国内法を変えればそれで事足りると考えられていたのである。
もっとも、岩倉使節団の中には、欧米視察によって憲法の重要性に気づいた者もいた。大久保利通や木戸孝允である。だが、帰国した彼らを待っていたのは、不平士族による武装蜂起であった。
当時、大久保らによる専制的な政策に不満を抱く士族が少なくなかった。また、政権内では征韓論争が巻き起こるなど、とても憲法制定に着手できる状態ではない。
極めつきが、1877(明治10)年の西郷隆盛による西南戦争だ。西郷の自害によって戦いは終結するが、木戸はその最中に病死。翌年には大久保が暗殺され、「維新の三傑」はこの世を去ることになる。
するとどうなったか。後継者たちは山積した国内問題を処理することに追われ、政府は憲法制定どころではなくなったのである。
結局、憲法が制定されるようになったのは、民間から立憲主義を求める声が高まったからだった。失策が続く政府に任せておけないと、憲法に立脚する開かれた政治を要求する声が大きくなったのである。
政府発足から憲法制定までに20年以上も時間がかかったのは、なんてことはない。政府が憲法の必要性に気づくのが遅く、国内のゴタゴタで手をつけられなかったというのが、実際だった。

