功利主義、現実主義に徹して
イデオロギーを超えたエコノミスト

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日本のケインズとも呼ばれ、積極財政政策の論客であった石橋湛山は、戦後大蔵大臣、通産大臣を歴任し、第55代内閣総理大臣となった。1952年から16年間、立正大学学長も務めている。その立正大学は<「モラリスト×エキスパート」を育む。>を教育目標に掲げ、混迷を深める現代社会に湛山思想の意義を、問いかけようとしている。立正大学リレー対談・第3回「エコノミスト・石橋湛山」は、元富士電機会長で、国立公文書館館長の加藤丈夫氏を招き、石橋省三・石橋湛山記念財団代表理事の司会で、山﨑和海学長と対談していただいた。
左から石橋省三氏、加藤丈夫氏、山﨑和海氏

現実主義に立脚した実体経済重視の発想

――東洋経済新報社の外郭団体、経済倶楽部は1931年、石橋湛山らが中心となって、経済の実務家と理論家の交流を目的に設立されました。その元理事であり、経済人である加藤さんの目に、エコノミストとしての湛山はどう映っているのでしょうか。

加藤●今、石橋湛山に考えを聞いてみたいと思うテーマは、やはりアベノミクスですね。ケインジアン、積極財政論者の湛山は、大胆な金融緩和、財政出動には評価を示すでしょう。ただ、実体経済まで手が回っていない現状には厳しい見方を示すと思います。特に、消費需要低迷の原因となっている、正規と非正規雇用の格差拡大、実質賃金下落には、より積極的施策を訴えるはずです。

山﨑●石橋湛山は、1945年8月25日に論説「更正日本の進路――前途は実に洋々たり」を発表し、科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいと日本経済の可能性を示し、人々を励ましています。

加藤●終戦直後にそんな主張を打ち出せたのが湛山のすごさですね。そこには、日蓮宗僧侶の家に育った宗教的バックボーンや、東洋経済新報社でケインズの原書などから学んだ経済学の知識のほかに、大学時代に学んだプラグマティズム(現実主義哲学)の影響を感じます。1930年の金解禁をめぐる論争では、実体経済に合わせて通貨価値を下げた新平価での金本位制復帰を断固として主張した裏には「ザイン」(ドイツ語・哲学用語で、あるがままの姿)から出発する、現実に立脚した考え方があります。これは「ゾレン」(同、あるべき姿)からスタートする官僚とは逆の発想です。

――戦前の官僚や軍人とも、経済倶楽部を中心として情報交換を図っています。

加藤●経済倶楽部は、中小や地方企業の経営者の声を吸い上げる情報網としての機能も持っていました。ここからの情報によって、湛山はより広い視野で現実を見ることができたのだと思います。

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