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「患者が痛みで泣き叫ぶのに耐えられず」手術室から逃げ出し医師を諦めた…"気が優しかった"偉人の飛躍

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(写真:Romaset / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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ダーウィンは1809年にイングランドのシュロップシャー州に生まれた。父が開業医だったため、エジンバラ大学の医学部に入学。入学するまでの期間は、父の助手を務めて、患者の問診をしたり、薬の調合をしたりした。父からもその働きぶりを褒められていたという。医師の卵として、順調なスタートを切ったかに見えた。

だが、入学して間もなくして、ダーウィンは自身が医師に向いていないことを嫌というほど思い知らされる。解剖学の講義について、姉への手紙できっぱりこう書いている。

「僕はこの先生も講義も、どちらも大きらいです」

病院での臨床講義には興味を引かれたようだが、大抵の講義はダーウィンには無駄な時間だったらしく、「どうしようもなく退屈」「思い出してもぞっとする」と辛辣な評価を下している。

特にダーウィンが耐えられなかったのは、解剖の実習である。まだエーテルやクロロホルムといった麻酔薬が活用される前の時代だ。外科手術では、患者が痛みを訴えて、泣き叫ぶのが常だった。

人一倍、気が優しかったダーウィンは、痛がる患者を直視できず、手術室から逃げ出してしまった。父の手伝いをしているだけでは知ることのなかった、残酷な外科手術の現場を目の当たりにし、ダーウィンは医学への関心を失う。

その後、紆余曲折を経て、ダーウィンは博物学の道へ。人類を前進させる大きな発見へとこぎつけることになる。

コミュニケーションがとれず患者が来なかった偉人

ダーウィンは早めに方向転換したほうで、医療従事者として活動してから、自分には不向きだと気づいた偉人たちもいる。

大村益次郎は1824(文政7)年、現在の山口県東部にあたる周防国吉敷郡で、村医者の長男として生まれた(生年を文政8年とする説もある)。祖父の代から医業を生業としており、益次郎も当たり前のように医師になる道を目指し、幼少の頃から『十二経』といった医書を読むなど努力を重ねていた。

18歳でシーボルトの弟子である梅田幽斎が開く蘭学塾に入塾。23歳のときには、大阪にまで足を運び、緒方洪庵の「適塾」で学んだ。ダーウィンとは異なり、「トレインドナース」を目指すりんや直美のごとく、益次郎は医療従事者になるべく、勉学に励んだのである。

1850(嘉永3)年、適塾を辞めて故郷に帰ると、益次郎は医院を開業する。

「この村には、自分ほど勉強をしている医師などいるはずがない」と自信を持っていたが、実際の患者と対峙すると、どうもうまくいかなかった。

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