中学までの彼を取り囲んでいた風景――家業の借金、進学と無縁の大人たち、勉強机のない居間――から、彼は確実に遠ざかった。だが本人の感覚としては、いまだに自分の一部は「向こう側」の人間だという。
日本経済のエリートたちを取材相手とする記者という職業に就いたあとも、「自分はもともと『向こう側』だよな、という違和感は忘れませんでしたね。それは人間としてバランスを保つ上で、悪いことではなかったと思う」と話す。
新聞社でのキャリアを積むのと並行して、彼は家の中で、ある作品の執筆をはじめる。
小学5年生の娘に向けて家庭内で連載を始める
2010年、高井さんの長女が小学5年生になった。お小遣いを自分で管理するようになり、お金のことを少しずつ理解し始める年齢である。父親としては、お金や経済の入門書を一冊くらい渡したい。だが本屋を歩き回っても、これだという本が見つからなかった。
「じゃあ、自分で書くか」
そう思って始めた家庭内連載が、『おカネの教室』だった。新聞記者として毎日文章を書いている人間である。「文章を書くのは抵抗がないし、記事とはちがったやわらかい読み物を書くのは楽しかった」と本人は語る。
原稿が一章書き上がるたびに、娘に渡した。3姉妹の次女も大きくなると「次の、まだ?」と催促してくる。家族の中で、一人、また一人と読者が増えていった。
途中、長期休載もはさみつつ、執筆は通算7年続いた。最後の4分の1ほどは、2016年のロンドン駐在後に書いた。
完結した原稿はまずKindleの個人出版という形で世に出され、それが出版社の目に留まり、2018年3月、紙の書籍『おカネの教室』として刊行される。学園もの青春小説の体裁を借りて、お金とは何か、経済とは何かを語るこの本は、口コミで広がり、いまもじわじわと売れ続ける10万部超えのロングセラーとなった。
高井さんは2023年6月、日本経済新聞社を退職する。
同年7月にはYouTubeチャンネル「高井宏章のおカネの教室」を開設、現在は千葉商科大学付属高校の校長として教育の現場に立ち、経済コラムニストとしてさまざまな媒体で書き続けている。
「自分が大学を出て新聞記者になり、海外駐在までして、デビュー作の著書が何万部も売れている事実に、いまでも『ホンマかいな』と笑ってしまうね」

