「そこで泣いている人が別の人なの。最初のメイクアップアーティストはとうにお払い箱になった」
「うわ。その人のことも泣かせたの? 3人目を呼んで解決する問題ではなさそうね」
「そうなの。シェリルはもう自分でやる気でいると思う。まったく、今日はまだ始まったばかりなのに」
シェリルのそんな一面は初めて見た。いまのうちに慣れたほうがいいわとデビーは言った。
ついに訪れた、恐れていた瞬間
私はその忠告を受け止め、自分の部屋に戻って安倍首相との面会の準備を進めることにした。シェリルのやり方はマークのそれとは大きく異なっている。マークは、携帯画面をスクロールせずに一度に読める程度の簡潔な事前説明を求める。シェリルは可能なかぎり詳細な情報を求める。
シェリルが何よりも期待しているのは、安倍首相がシェリルの本を手にしている写真だ。首相官邸が丁重かつはっきりと断ってきたことの一つはそれだった。シェリルは面会の最後に強引に首相に本を持たせて写真を撮るつもりでいる。私は首相に渡す本を預かっていた。総理夫妻宛に、サイン入りの献辞も添えてある。まるで禁制品を持ちこもうとしている気分だった。こんな無礼に加担している自分がいやになる。
洗練された首相官邸に行くと、ものすごい数のカメラマンが集まっていて、私はおなかの目立ち始めた自分の体を痛烈に意識した。『リーン・イン』のビジュアル要員として連れてこられたみたいで、決してよい気分ではなかった。シェリルと安倍首相はFacebookの〈いいね〉のポーズで写真に収まった。報道陣が退出し、2人は腰を下ろして話を始めた。同席しているのは双方の数人の補佐官と通訳だけだ。
会談は思いのほかうまく運んだ。シェリルは話すべき内容をすべて完璧に押さえた。データセンター、消費者保護、プライバシーなど、実際の政策に直結する議論が交わされた。ウーマノミクスと『リーン・イン』を結びつけた説明もうまくいった。
安倍首相は興味を示したし、意外にも場違いな感じはしなかった。これこそが外交の真髄だ。首相官邸は私たちが提供した資料を残らず活用し、安倍首相はこちらが提起したすべての論点にきちんと応じるための準備をしていた。シェリルは、日本の政治家が選挙活動でFacebookを使えるよう、法の改正を提案した。
また、甚大な津波被害のあった東日本大震災を受け、災害対応ツールとして開発中のシステムについても説明した。首相はこれにも関心を示した。話が終わるころには、安倍首相や側近たちと本物の絆を築けたように感じた。これは他国のトップとの会談で初めての成功例になった。私が指揮した交響曲のように誇らしかった。
シェリルと安倍首相が立ち上がる。ついに、恐れていた瞬間が来てしまった。私は贈呈用の『リーン・イン』をしっかり持つと、破裂寸前の爆弾のように首相の手に押しつけた。と同時に2人の前に飛び出し、携帯電話で写真を3枚撮ったーー日本側に制止される前に。いや、もしかしたら、大きなおなかを抱えた女を押しのけるのをためらっただけのことかもしれないが。
質問を浴びせてくる報道陣を無視し、官邸前に駐めておいたバンに乗りこむ。シェリルから、隣に座ってと言われた。シェリルが思いがけず腕を回してきた。長くしっかりとしたハグだった。
「すばらしかったわ、サラ。どうやって実現したのか見当もつかないけれど、とにかくすばらしかった」

