結果として、現場には「誰にも肩入れしない」ことを正解とする空気が広がります。それは確かに、誰からも文句を言われにくいやり方です。しかしかつて、悩んでいる生徒の人生に伴走しようとした「熱心な教員」の振る舞いを、丸ごと否定する空気でもあります。
なぜ「良い先生」ほど消耗するのか
ここまで見てきた事例には、ひとつの共通項があります。いずれも、教員が職務上の最低限の役割を超えて、もう一歩踏み込んだ場面で起きているという点です。
入試の朝に元気な挨拶をするのも、困っている生徒に個別に時間を割くのも、本来は強制されている業務ではありません。やらなくても、誰からも責められなかった行為です。だからこそ、それをやろうとした教員ほど、想定外のクレームの最初の標的になります。
皮肉で悲しいことに、今の学校現場では、「良い先生」ほど消耗するという逆説が生じています。
それこそ「金八先生」のような熱心な教員ほど、規定の業務範囲を超えてグレーゾーンに踏み込みます。生徒の家庭事情まで気にかけ、休み時間にも声をかけ、保護者からの相談にも丁寧に応じる。踏み込んだ分だけ、保護者の主観的評価にさらされる接点が増え、クレームの的になる確率も上がります。一方、規定の業務だけを淡々とこなし、生徒と一定の距離を保つ教員のほうが、皮肉なことに最もリスクが低くなります。
組織のロジックから見れば、これは合理的な帰結かもしれません。しかし学校という現場全体で見たとき、その合理性は持続可能でしょうか。ベテランが早期退職を選び、若手が数年で離職していくなかで、残るのが「踏み込まない教員」と「踏み込んだ末に消耗していく教員」だけになれば、教育の質そのものが地盤沈下していきます。そして消耗して去っていく側は、ほぼ例外なく、かつての基準でいう「良い先生」の系譜に属しているのです。
コンプライアンスや公平性への配慮は、もちろん後戻りすべきものではありません。問題は、その配慮の射程がどこまでで、誰がその線を引くのかが、現場任せのまま放置されていることです。線を引かないまま要求だけが膨らんでいけば、引き受ける側はいずれ崩れます。「良い先生」が静かに現場を去っていく構造に歯止めをかけられなければ、そのツケは最終的に、教室にいる子どもたち自身が払うことになります。
(※1)東京都教育委員会「学校と家庭・地域とのより良好な関係づくりに係る有識者会議」資料(令和7年4月公表)。同調査では、過去5年間に「通常の社会通念から疑問と感じる行動や行為」を外部から受けたと回答した教職員が22%、相手の88%が保護者であったとされる。東京都教育委員会
(※2)OECD「国際教員指導環境調査(TALIS)2024」、および文部科学省「OECD国際教員指導環境調査(TALIS)2024 報告書のポイント」(2025年10月公表)。文部科学省 TALIS 2024報告書のポイント(PDF)
(※3)文部科学省「令和5年度公立学校教職員の人事行政状況調査について」。教育職員の精神疾患による病気休職者は7119人で、3年連続の過去最多。なお最新の令和6年度調査では7087人と僅かに減少したものの、高止まりが続いている。文部科学省 令和6年度公立学校教職員の人事行政状況調査


