1973年11月23日、大蔵大臣の愛知揆一が急死した。第1次オイルショックへの不安が全国に広がる中での現職閣僚の死は、国民をひどく動揺させた。
大蔵官僚から政界に転じた愛知は、吉田茂内閣の通商産業相を皮切りに、内閣官房長官、法相、文相、外相を歴任した屈指の政策マンだった。大蔵省の文書課長だった頃には預金封鎖と新円切り替えの戦後処理策を企画、立案した。
数日前から風邪気味だった愛知は、11月21日夜に高熱を出し、翌朝の閣議と石油対策会議には抗生物質を服用し出席していた。
その夜再び熱が出たため自宅で静養していたが、23日夕刻に突然昏睡状態に陥り、慶応大学病院に搬送される。そのまま意識は戻らず、午後9時50分、急性肺炎のため亡くなった。66歳だった。
当時大蔵事務次官だった相沢英之は、愛知から「昨日の晩から熱が出て手が動かない」と聞かされていた。入院の知らせを聞き、慌てて病院に駆けつけたときには、すでに心臓マッサージを受けていたという。
愛知は首相の田中角栄の政策参謀であり、「日本列島改造計画」の取りまとめ役でもあった。72年暮れに蔵相に就任してからは為替の安定と物価の抑制に心を砕き、73年9月のIMF(国際通貨基金)ナイロビ総会では米英仏独の蔵相をひそかに夕食会に招き、5カ国蔵相会議(G5)を事実上立ち上げたことでも知られる。
相沢の前の事務次官だった吉国二郎は、愛知が通訳抜きで欧米当局と渡り合える数少ない政治家だったとオーラルヒストリーで振り返り、「やっぱり少し疲れが多すぎたんでしょう」と話す。
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