私が忘れられない、もう1つの出来事は1975年8月、熊本県議会議員が環境庁(当時)での陳情の際、「申請者には補償金目当てのニセ患者がいる」と発言したことだ。この発言には、これ以上患者が増えると、補償でチッソの経営が危なくなるという、チッソを守る意識が根底にある。
チッソを守る→被害者封じという構図の中にある発言である。「チッソの排水を止めるな」と陳情した1959年当時の“オール水俣”と地下茎がつながる、水俣の岩盤である。
この亀裂を何とか修復しようとしたのが1994年に水俣市長に当選した吉井正澄(1931~2024)だ。就任直後の水俣病犠牲者慰霊式で水俣市長として初めて患者・被害者に謝罪、市民の「もやい直し」を提唱した。その吉井の、2005年6月に開催された環境省「第2回水俣病問題に係る懇談会」での発言が議事録に残されている。
懇談会は前年の2004年に最高裁で国と熊本県の責任が初めて確定したことを受けて当時の小池百合子環境相が設置したものだが、吉井はここで地域に走った亀裂の深さ、深刻さを訴え、排水停止を指導しなかった通産省について「組織が良心を殺した」と指摘、「水俣病は大の虫に踏みにじられた小の虫だった」、ニセ患者発言について「根底に補償を受けている人へのねたみ」と語っている。
事件史を地元市長としてここまで分析し発言したのは、吉井が初めてであった。その姿勢こそ共有されねばならないものだと思う。
患者という発光体
冒頭で指摘した、水俣病問題が70年も続いている理由の③(被害者が異議を申し立て続け、泣き寝入りしていない)の関連で言えば、患者運動の歴史は、少数者が切り開いてきた歴史である。
見舞金契約をチッソからのまされた患者家族たちがチッソを相手にした裁判を提起したのは1969年6月。このときの原告は28世帯、112人。水俣病患者家庭互助会の中では少数派だった。多数は結論を政府に一任したのである。
判決は1973年3月。患者側の全面勝訴で、このときの賠償額1600万円から1800万円が訴訟派だけに限らずすべての患者に適用されることになった。一方、裁判ではなく、チッソと相対の交渉を求める川本輝夫(1931~1999)らのグループは訴訟派よりもっと少数だったが、東京・丸の内のチッソ本社前に座り込み、全国的な共感の輪を広げた。
そして川本と一緒に行動していた緒方正人(1953~)はその後、「水俣病はシステム社会にからめとられてはいないか」と自問を続け、認定申請を自ら取り下げ、「チッソは私であった」という境地に立ったのである。このとき、緒方はまったくの一人だった。しかしその一人は強い発信力を持って現在に至っている。患者、被害者そのものが事件の意味を照らす発光体となっているのである。
現在もさまざまな手段で発信を続ける被害者がいる。また司法の場で闘い続けている被害者たちも、こうした歴史の大河の中にいるように思う。
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【事件の本質をどう伝えるか】
