ここで、もう一度、水俣という地域に戻って考えてみたい。私には、事件史のエポックとも呼ぶべき2つの出来事が忘れられない。
1つは、少数の犠牲と多数の利益という視点で考えたいことだ。1959年11月8日付の熊本日日新聞は、水俣市長、市議会議長、商工会議所会頭、地区労議長など28団体の代表50人が「チッソの工場排水を止めるな」と熊本県知事に陳情したことを伝えている。“オール水俣”による陳情であった。
記事にはこうある。「陳情団の話では市税総額一億八千余万円の半分以上を工場に依存し、また工場が一時的にしろ操業を中止すれば五万市民は何らかの形でその影響を受ける」。“オール水俣”に入っていないのは少数派の漁民とさらに少数の患者家族だ。
このときの水俣市の人口は5万人で、水俣史上最も多かった。そして患者は79人である。図式化したくはないが、ここには少数の犠牲と多数の利益という構図があるように思える。
共有されなかった実験結果
さらには、後にわかる2つの問題が隠れている。1つは「情報の共有」という問題だ。
“オール水俣”による陳情の1カ月前、チッソ付属病院で、ある実験結果が出た。細川一院長(1901~1970)が多くの猫にさまざまな条件で工場の排水を与え続けていたところ、アセトアルデヒド製造工程から出る廃液を餌に混ぜて与えられた猫が水俣病特有の症状(狂騒状態やけいれん、歩行困難)を発症したのだ。
実験に使われた猫には番号が振られており、発症した個体が「400号」であったため、この実験は「猫400号実験」と呼ばれる。チッソは、アセトアルデヒド工程が水俣病の原因であることを猫400号実験で突き止めていたのである。
さらに言えば、その前年には、排水路をひそかに変更した結果、変更先の水俣川一帯で新たな患者が発生していた。このことを知っていたら、陳情した市民は、はたしてああいう行動をとっただろうか。
2つ目は、陳情に行った人の側から、後に被害を訴える人たちが出てきたことだ。この時点では、被害者が被害者を抑え込んでいたということになる。水俣という地域、事件史の複雑さである。
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【大の虫に踏みにじられた小の虫】
