敗戦で海外資産をすべて失ったチッソは水俣工場で再起を図る。その中心を担ったのが、植民地朝鮮で事業展開した興南工場の幹部たちだった。
特筆されるのは、昭和天皇が戦前と戦後の2回、水俣工場を訪問していることである。チッソの社史『風説の百年史』には、戦後の1949年の訪問時、「日本再建、生産増強のためにしっかりお願いしますよ」と激励されたとある。
チッソは戦後の傾斜生産方式で肥料増産に励んでいた。戦前も戦後もチッソは国策会社であった。事件史と直接の関連はないが、現皇后の雅子さまはチッソ元社長・江頭豊の孫に当たる。
チッソがアセトアルデヒドの製造を始めるのは1932年だが、戦後は製造法の変更もあって生産量を飛躍的に拡大させ、1960年には戦後のピークの4万5245トン記録。当時国内には7社8工場がアセトアルデヒドを製造していたが、チッソは国内生産量の4分の1から3分の1を占めていた。この7社の中には新潟水俣病の原因企業、昭和電工も含まれる。
「東大の1番、2番が水俣病を起こした」
東京大学工学部応用化学科を卒業した環境科学者の宇井純がかつて述懐したことがある。
「応用化学科の1番はチッソに入り、2番が昭和電工だった。東大の1番、2番が水俣病を起こした」
アセトアルデヒドは高度成長の準備期間ともいえる時代にあって欠かせないものであった。NHKスペシャル「戦後50年 その時 日本は」(1995年)のチッソの特集に、通産省の官僚が「チッソが、これだけの産業が止まったら日本の高度成長はありえない」という省内の声を紹介する場面が残されている。
チッソの排水は止まらなかったのではなく、止めなかったのである。高度成長の陰に公害があったといわれるが、事件史から見れば実態は逆で、公害があったから高度成長が実現できた、と言うべきであろう。
水俣湾の水質規制が実施されるのは1969年。チッソのアセトアルデヒド工場がスクラップされた後のことだ。
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