1963年、熊本大学医学部教授・入鹿山且朗がアセトアルデヒド製造工程中のスラッジから直接、有機水銀を検出したことを報告する。アセトアルデヒドはビニールの原材料の1つでチッソの主力商品。いわば決定打であった。
このとき、熊本地検の検事正は「大いに関心をもたねばならない」、厚生省の局長も「必要な措置をとるよう検討する」と語っているが、検察庁も厚生省もまったく動かなかった。もともとやる気がなかった、と言うしかない。そして1965年、新潟県で第2の水俣病が確認されたのであった。
2004年、最高裁は国と熊本県が「1960年以降、排水規制を行うべきだったのにこれを怠った」と初めて判示、国と熊本県の不作為が確定したのだが、公式確認から48年が経過していた。
排水を止めなかったのは誰か
工場排水が原因だと疑われながらも排水を止めなかったチッソについて触れたい。
実業家の野口遵(したがう)が1906年、鹿児島県大口村に曾木電気を設立し、電気を使ったカーバイド、肥料製造を計画。1908年、地元の誘致を受けて熊本県水俣村(当時)に日本窒素肥料(1950年に新日本窒素肥料、65年にチッソと社名変更)を発足させる。
宮崎県に延岡工場(現在の旭化成)を建設するなど事業を拡大。新興財閥の雄となり、メインバンクを三菱銀行から日本興業銀行へ変更したこともあって、国策企業の色合いを強め、朝鮮半島に造った東洋一のコンビナート・興南工場(従業員約5万人)を軸に事業展開する。
1940年制作の映画『鴨緑江大水力發電工事』では、野口が進める巨大ダム建設現場を当時の満州国(現中国東北部)高官で戦後、日本の首相となる岸信介や関東軍司令官がたびたび訪れているのが活写されている。野口は敗戦を見ることなく1944年に70歳で死亡する。
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【国策会社】
