このとき福之進は40歳だったため、和より22歳も年上にあたる。親子ほど年齢が離れていたことになるが、年齢差よりも大きな問題があった。
それは、福之進に妾が複数いたことである。
和の一人息子が「六郎」と名づけられたワケ
民法によって「一夫一妻制」が定められたのは明治31(1898)年のこと。この頃はまだ法律上、妾を持つことは問題視されていなかったが、和には到底、受け入れられなかったようだ。
この時点で、和は福之進との結婚を取りやめるべきだったのかもしれない。
しかし、このときの大関家はというと、縁談をまとめた父の大関弾右衛門は、病に伏し、母の哲が裁縫を教えることで、なんとか生計を立てている状態である。大地主でもあった渡辺家との縁談は、むげにできるはずもなかった。
和は「妾との関係を清算する」という条件で、福之進と結婚を果たしている。
近所では「玉の輿」だとうらやましがられた和だったが、結婚してすぐに疑念が持ち上がる。妾との関係はまだ続いているのではないか。夫についての町の噂を耳にするたびに、和は心を悩ませたようだ。
やがて、和と福之進との間に男の子が生まれる。和にとっては初めての子だったにもかかわらず、夫や義両親により「六郎」と名づけられたという。和は「なぜ六郎なのか」と福之進に追及。すると、悪びれることなく、すでに妾たちとの間に子どもが数多くいることを、福之進は白状した。
妾の一人は「千代」という女性だった。福之進は和と結婚後も、妾の千代と別宅で暮らし続けていたという。
それならば、初めから千代を本妻とすればよさそうにも思うが、千代はもともと会津藩士の妻で、戊辰戦争で夫も子どもたちもみな失っている。そんなときに福之進にいわば、拾われた身。そんな千代では、渡辺家には釣り合わないと、福之進の母が許さなかったようだ。ほかの妾も同様に、渡辺家の家格に見合う女性がいなかった。
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【和は元家老の娘】
