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《祖父は諦め父は破産》それでも孫は"消滅寸前の布"を拾った「飯は食えない」と言われた遠州綿紬が1.3億円売れるまで

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時代遅れの遠州綿紬に新しい価値を見出した、ぬくもり工房の大高旭さん(写真:筆者撮影)
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だが、1970年代にさしかかると時代は変わり始める。国内需要は飽和し、円高が進んだことで、繊維産業の勢いは削がれていった。

とどめを刺したのは、1985年のプラザ合意だ。円相場は1ドル240円台から一気に120円台に高騰。織物工場はクモの子を散らすように、賃金の安い中国や東南アジア諸国へと移っていった。

父の茂明さんが事業を継いだのは、没落期真っただ中の1992年。中国から安いシーツや枕カバーを仕入れ、量販店に卸す薄利多売の事業に転換していた。

「利益が少ないので、朝から晩まで働いて、休みの日でも電話をとって……。僕はその事業が嫌でしたね。将来性がないとわかっていたのか、父も継げとは言いませんでした」

エルメスと、父の格安シーツ

旭さんは名古屋の大学へ進学し、そのまま飲食業に従事した。故郷の繊維産業を継ぐ気などさらさらなかった。

大都会名古屋は、若い旭さんにとって刺激に満ちあふれていた。

店の共同経営者になり、背伸びしてエルメスやアルマーニなどハイブランドの製品を購入した。「高いものには理由がある」と信じていた。

「VOGUEなどのファッション雑誌を読んで、ハイブランドのヒストリーを知りました。『だから高いんだ!』って腑に落ちて。だから頑張ったご褒美に買ったり、大切な相手にプレゼントしたりする価値があるんだなと」

一方で、旭さんが名古屋で過ごした2000年代、日本は長く続くデフレに苦しんでいた。牛丼1杯280円、ユニクロのフリースは2000円以下。100円均一ショップも爆発的に増えた。

衣服も日用品も食べ物も、安さとそこそこの品質だけを求められ、商品が個性を失っていった時代だ。そのころの旭さんには、特徴のない安価な商品が、父が扱うメイド・イン・チャイナのシーツと重なって見えたかもしれない。

遠州綿紬の生地について説明する旭さん(写真:筆者撮影)

名古屋での日々に充実感を覚えていたそのころ、父の病気が伝えられた。旭さんは26歳だった。妹が手伝ってはいるが、父なしでは事業は回らない。旭さんは、浜松への帰郷を決めた。しかしこのときはまだ、会社を継ぐことについて、深く考えていなかったという。

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【懐かしいのに新しい】

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