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《祖父は諦め父は破産》それでも孫は"消滅寸前の布"を拾った「飯は食えない」と言われた遠州綿紬が1.3億円売れるまで

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時代遅れの遠州綿紬に新しい価値を見出した、ぬくもり工房の大高旭さん(写真:筆者撮影)
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こちらで製造する「遠州綿紬(えんしゅうめんつむぎ)」の特徴は、素朴な縦縞。店内には、ハンカチ、スリッパ、手提げ袋などが並ぶ。手に取ってよく見ると、布の表面にブラウン管テレビの粒子の荒さを思わせる、わずかなざらつきがある。華やかさよりも実用性を重んじたその質感に、どこか生活の匂いが残っていた。

平安時代から戦国時代まで「遠江国(とおとうみのくに)」があったこの地は「遠州」と呼ばれ、ここで織られた「遠州綿紬」は耐久性に優れた野良着として農民に重宝されていた。

素朴な縦縞が特徴の遠州綿紬。かつては農民のもんぺ用に使われていた(写真:筆者撮影)
店内全景。ハンカチや巾着、扇子などの日用品が並ぶ(写真:筆者撮影)

「ガチャンと1回機を織れば、1万、2万と手に入る」

1950年代から高度経済成長期にかけて、布の需要は拡大した。1960年代には繊維は最大の輸出産業となり、織れば織るほど売れる「ガチャマン」時代に突入する。

ぬくもり工房の代表 大高旭さん(47)の祖父、敏明さんが遠州綿紬の卸問屋「大幸株式会社」を立ち上げたのは1966年。まさに黄金期の真っただ中だった。

「祖父の会社は、最盛期には年商16億円ほどあったそうです。市内には機屋が1500軒以上あり、そのうち半数と取引していたと聞いています」

当時機屋は小さな家内工業で、家族で交代して深夜まで織り続けていた。シャトルでヨコ糸を通して整える「ガチャン」という音が、昼も夜も鳴り響いていた。

全国津々浦々に運ばれていった遠州綿紬

機屋から買い取った反物が、階段状に次々と積み上がっていく。限界まで山が高くなったころに集荷のトラックがやってきて、大量に荷台に積んで走り去っていく。

祖父に「あの布はどこに行くの?」と聞くと、「宮崎だ」「仙台だ」と、全国津々浦々の地名が返ってきた。旭さんが物心ついたころまでは、まだ全盛期の活気がわずかに残っていた。

大幸株式会社を創業した祖父の大高敏明さん。当時は布が山のように積み上がっていた(写真:ぬくもり工房提供)

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【安さとそこそこの品質だけを求められた時代】

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