のちに信長の宿敵となる武田信玄、上杉謙信、朝倉義景らが、幼少期からそれらを学び、成人後も折に触れて勉強していたのとは対照的に、信長は歌学・儒学・仏教に関してはまったく勉強しませんでした。
興味がない、おもしろくない、というのがその理由でした。
信秀は『源氏物語』『古今和歌集』『新古今和歌集』、さらには中国の古典教養などに目を向けない信長を叱らず、興味を覚えた馬術・鉄砲などを積極的に学ばせました。
あるいは、古典を学ぶことで、古い価値観に影響されることを懸念したのかもしれません。信秀の教育の目的は、信長を「規格外」の英傑にすることであり、従来と同じ知識や技術、考え方を授ければ、型にはまった凡庸な人間にしかでき上がらない、と考えていたのです。
その代わりに信長は、自分が興味を持ったものを片っ端から、積極的に学び、ものにしていきます。なによりのめり込んだのは鉄砲ですが、併せて弓や馬術、水泳に関しても、やりたいと思ったものには分野を問わず、寸暇を惜しんで打ち込みました。
信秀もこの方針を全面的に支援し、それぞれの一流の師匠を全国各地から呼び寄せて、息子の指導にあたらせています。その甲斐あって信長は、弓術、鉄砲、馬術、水泳に関して、尾張で一番といえるほどの上達を示しました。
好きなもの、得意なものしか学び、つきつめなかったため、いずれも驚くべき腕前となった信長はその結果、「劣等感」をまったく持たない人物に育ちました。
周りの人間が自分に劣る存在に見えてしまうため、良くも悪くも自分は特別だという意識を持つようになってしまいます。この傲慢さは短所でもありますが、同時に中世の古い価値観にとらわれない考え方を可能にした、ともいえるのです。
桶狭間の戦いにも父の影響
たとえば信長は、自らも得意な鉄砲を大量使用する戦法により、最強といわれた武田騎馬軍団を打ち破っています。また、家臣団は完全な実力主義で構成し、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀など出自が明確ではない人間であっても、城持ちの分限にまで取り立てました。
さらに、信玄や謙信が仏教に深く帰依して敬意を表したのに対して、信長は中世にはびこっていた既成概念にとらわれず、宗教勢力にも恐れず立ち向かいます。
自分の掲げる“天下布武”の障害になる、と見れば容赦なく排除しました。


















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