“昭和天皇の弟”もハマった味!東海道線と箱根路で楽しむ、駅弁「あじ寿司」と「幻の蕎麦」。日本の近現代を「鉄道」からひもとく
「小田急のロマンスカーで、箱根湯本の『初花』へ。早川の瀬の音を聞きながらのとろろのだしの香りのよさ、そして次はザルと行きたい。温泉なんかどうだっていい。すんだらまたロマンスカーで」(同)
ロマンスカーで往復するのを厭(いと)わないこと自体、この列車に対する入江の思いがにじみ出ている。1963(昭和38)年に前面が展望席になっている「NSE車」が登場し、新宿と箱根湯本を結ぶ特急「はこね」に使われると、ロマンスカーはNSE車の代名詞になった。
惜しむらくは速すぎること
1966年9月28日、入江は午前中に皇居に出向いてから、新宿13時発箱根湯本ゆきの「はこね23号」に乗った。3分の1ほどしか乗っていなかったが、この空き具合は理想的であった。「あまり混まない電車や汽車の中」で「頃合いに変ってくれる」車窓を眺めつつ、じっくり物を考えることができるからだ(同)。
惜しむらくは速すぎることであった。「小田急のロマンスカーは、やたらむしょうに走りつづける。一時間二十分とは便利だが、山や川や丘や畑をながめながら、物思いを楽しむには少し時間が短か過ぎる」(『行きゆきて』)
14時20分、箱根湯本着。すぐ「はつ花」に行き、「自然薯とざる」を食べた。「おいしかつた」(『入江相政日記』第7巻)
このあと迎えの車に乗り、小涌谷の箱根小涌園で「宮廷よもやま話」と題して1時間ほど講演した。温泉には入らなかった。そしてまた車で箱根湯本に戻り、17時12分発新宿ゆきの「はこね34号」に乗った。「大山が丹沢が、雲の多い夕焼空に立ちならび、まだ濁らない相模川が多摩川が、かすかに光って流れている」(『行きゆきて』)
18時37分、新宿着。「すべて思いなかばならずしてもう新宿」(同)であった。翌29日、入江はロマンスカーで考えたことをもとに、月刊誌『短歌研究』に連載していた随筆の原稿を仕上げ、そのタイトルを「箱根路を」と名付けている。


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