【蔦屋重三郎×歌麿×写楽】謎の浮世絵師・東洲斎写楽デビューの裏にあった奇抜な戦略!歌麿と決別後、蔦重が重用した"活動期間10カ月の天才"

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写楽が描いた錦絵の版元は、全て蔦屋(重三郎)であります。役者絵などを短期間に集中的に制作した写楽。その後の消息はよく分かっていません。

そうした事情から、写楽は「謎の浮世絵師」として現代においてもよく知られています(ちなみに、写楽は江戸の八丁堀に住んでいたと言われています)。

しかし、写楽の作品が蔦屋から刊行されているということは、写楽のデビューや活動に、蔦屋重三郎が大きな役割を果たしていたことは間違いないと思います。

謎に包まれた東洲斎写楽と蔦屋重三郎の出会い

重三郎と写楽がいつ頃に出会ったのか、判然としないと先述しました。だが、写楽の初めての作品が寛政6年5月に刊行されていることを踏まえれば、2人の出会いの時期というのが、朧げながら浮かび上がってきます。

同年5月、写楽は、大判28枚の役者絵(大首絵)を出しています。普通、役者絵を売り出す一番の好機は、顔見世興行です。

顔見世興行とは1600年代半ばから始まった歌舞伎の年中行事の1つです。江戸時代の各座は、10月からの1年契約。10月に役者などの入れ替えを行いました。そして、11月に新たに加入した役者を加えて一座総出演で興行します。これを、顔見世興行というのです。

よって、歌舞伎界の大きな行事である顔見世興行がある11月が、役者絵を販売するチャンスでした。その次のチャンスは、正月だと言われています。しかし、写楽の役者絵は、前述のように、11月や正月に刊行されず、5月です。それはなぜなのでしょうか?

まず、考えられるのは、寛政6年正月に売り出すだけの余裕がなかったということでしょう。絵を描くには、また絵を刊行するには、当然のことですが、準備期間が必要です。その準備期間が十分でなかったので、5月刊行となったと思われるのです。

その事から、重三郎と写楽が出会ったのは、寛政5年末から寛政6年の春頃ではないかという説もあります(松木寛『蔦屋重三郎』講談社、2002年)。

寛政6年5月、写楽の役者絵が出版されますが、それは「花菖蒲文禄曾我」を描いた作品11図。「敵討乗合噺」を描いた作品7図。「恋女房染分手綱」と「義経千本桜」を描いた作品10図(合計28図)でした。いずれも、大判雲母摺の大首絵という豪華なもの。重三郎はそれを一挙に売り出したのです。

東洲斎写楽筆『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草』
東洲斎写楽筆「花菖蒲文禄曾我」を描いた11図のうち1図『二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草』(画像:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
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